神の義を求めなさい

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聖書の言葉

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えてあたえられる。

新約聖書 マタイによる福音書 6章33節

寺川和宏によるメッセージ

おはようございます。わたしは奈良教会の定住伝道者の寺川と言います。宜しくお願いいたします。先週と今週は2回に分けて、マタイによる福音書6章33節より学ばせて頂きたいと思います。

先週は「神の国を求める」ことについて見て来ました。今週は「神の義を求める」ことについて考えてみたいと思います。聖書において、「正しい」とか「義」という言葉には、法的な意味があります。つまり、神様の義を求めるとは、神様より、正しいものとされ、無罪とされることを求めなさいということです。

本日の個所の少し前で、主イエス・キリストは、弟子たちに向かって、自分の命のために、何を食べようか。何を飲もうか。何を着ようか。と思い悩むなと言われています。

そういったことに思いを向けるのでは無くて、何よりもまず、一番に、神の国と神の義を求めなさいと教えておられます。

わたしたちが生きていくためには、食べ物や飲み物や着る物は必要です。また、これ以外にも、わたしたちが普段の生活していく中で、多くの悩みを抱えながら歩んでいるのだと思います。

しかし、主イエス・キリストは弟子たちに向って「思い悩むな」と言ったあとで、神様がわたしたちを愛しておられることを教えるため「野に咲く花」に目を向けさせるのです。

ここで、主イエス・キリストは、「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華で極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾っていなかった。今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことではないか」と、教えられました。

ここで、神様は野の花を愛し育てておられること、そして、野の花よりもわたしたちを愛してくださっていることを教えられます。

そして、天地を創造された父なる神様は、すでに、わたしたちに必要なものはご存知ですから、食べ物や着る物などを求めるのではなく、なによりもまず、わたしたちを野の花よりも愛しておられ、全ての必要をご存知である神様に正しい者であると言われる道、神の義を求めなさいと言われるのです。

それでは、わたしたちは、なぜ神様に正しい者、義であると言われることが必要なのでしょうか。人間の祖先であるアダムとエバは、エデンの園で神様より食べてはならないと禁じられていた実を食べてしまいました。つまり、アダムは神様の命令に背くという罪を犯したのです。

その罪が、子孫である人間全体に広がる結果となったのです。このため、わたしたち人間は、神様との関係性の回復のために、神様の義が必要となったのです。

この罪からの救いのために、主イエス・キリストは、わたしたちの代わりに十字架に掛かられて死なれたのです。この主イエス・キリストを神の子、救い主であると信じる人を、神様は、義、正しい者とする道を開いてくださったのです。神様に義とされることによって、わたしたちは、神の子、光の子とされるのです。

この神様から義とされた人の祝福について、詩編23編をお読みしたいと思います。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。

死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。

あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。

わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう。」

神様から義とされ、神の子とされた人は、神様御自身が養ってくださるので、何も欠けることはありません。つまり、思い悩む必要はないのです。また、正しい神様は、わたしたちを正しい道へと導いてくださいます。

また、天地を創造され、わたしたちを愛してくださっている神様御自身が、共にいてくださるので、災いの中にあっても、恐れることなく、神様の内にある希望に目を向けることが出来ます。

また、苦しみの中、力を無くして立ちすくんでしまうようなときも、神様によって、力づけられるのです。

また、苦しみの中にあっても、必要な食べ物や飲み物を与えられるのです。神様に義とされ、神様の愛の内にあるものは、命のある限り、神様からの恵みと慈しみが、自分からではなく、神様に方から、追ってくると言います。

また、エデンの園から追放された人間が、神様によって義とされ、正しい者とされて、再び神様の家へと帰るのです。そして、この神様の家に、生涯とどまると言うのです。

わたしたちが、教会にいくということはどういうことなのでしょうか。それは、エデンの園から追放された人間が、再び、神様の家へと帰ることです。

教会に行くということは、何も、新しい場所、自分の全く知らない場所へ行くというのではなく、むしろ、本来、人間があるべき場所へと帰ることなのです。

どうか、一人でも多くの人が、神様に義とされて、神様の家へと帰り、神様と共にある祝福で満たされればと願います。そのためにも、救い主である、主イエス・キリストを信じて、神様に義とされれば幸いです。

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