薔薇と神の言葉

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聖書の言葉

主よ、とこしえに

御言葉は天に確立しています。

旧約聖書 詩編 119編89節

宇野元によるメッセージ

薔薇のいろいろある楽しみのひとつが切花でしょう。私の場合は、ほんの数輪、あるいは一輪、小さな花瓶にさすだけの素朴なものです。目立たない所にひっそりひらいている花をみつけると、よろこんで家に入れます。玄関前の薔薇のなかに小さな株があります。「レディ・エマ・ハミルトン」というオレンジ色のイングリッシュローズですが、隣にある薔薇に比べて背が低く、うなだれて咲くため、地味な感じがします。しかしこの薔薇は、花瓶に活けるとまったく別の表情をみせてくれます。新鮮なくだもののような印象といいましょうか。そしてその印象によく調和する、とてもこころよい爽やかな香りを振り撒いてくれます。静かに薔薇に向かうと、どの薔薇も打ちとけて、親しく自分の秘密を知らせてくれるように思われます。

薔薇の詩人リルケの時代は、薔薇の歴史のなかでも極めて魅力的な時期に当たっています。現代の薔薇が登場し、世間の注目を集めた時期であるとともに、それ以前の薔薇たちもまだ現役で、多くの家の庭で育てられていました。

花弁の多いタイプのイングリッシュローズは、現代の薔薇以前の薔薇たちの、優しい風情、かぐわしさ、奥ゆかしさを受け継いでいます。

薔薇を歌うリルケの詩のなかに、こんな言葉があります。

花びらの多い繊細な薔薇の花を深い盃にみたてて、このように表現しております。

盃のなかは どれも一杯だ自分自身のなかに、

幾重にも 重なりあい

谷、また谷が ぎっしり詰まった谷のように

自らのなかで 重みを湛えている

たくさんの花びらが自らのなかに。

ただ外側の世界が存在するだけではなく、外側の世界と共に豊かな内側の世界が存在する――静かな薔薇たちは、これを無言のうちに教えてくれるような気がします。

そして薔薇をみながら思います。薔薇も、私たちも、豊かに、しかもこまやかに創られている。私たち人間も、人の目に映るだけの存在ではなく、内容の詰まった存在である、と。

リルケの時代から100年。私たちは「外側」に注意を誘う文化のなかに生きています。どれだけ立派に見えるか。どれだけ見える結果をもたらすか。どれだけ多くの拍手喝采を得るか。どれだけ数で測れる影響を与えるか。現代の人間は、外面的な、一面的な自己理解に陥る危険にさらされていると言ってよいでしょう。そして目に映るものの過剰な強調は、私たちの美のイメージ、美しさについての理解を表面的なもの、浅いもの、そして画一的なものに誘います。しかし美しさはもともと、ただ見える外観にあるだけではない。私たちの人生についても同じように言えます。人生はもともと、みかけのことではない。私たちの経験における、真実なものと関わります。

また、私たちの重い現実と関わります。大切な人を失う体験や、病気の体験、過去の過ちや、果たせない負い目と関わります。

そして、そのような私たちにふさわしいものが与えられております。

聖書は教えてくれます。私たちは、私たちの内側に見合う言葉を与えられている。

私たちの内側に語りかける言葉が存在しています。私たちの深みに語りかける言葉が。私たちの内部に重なる「谷、また谷」に。わたしたちにふさわしい、また、なくてならない言葉が。

けさの短い言葉をご一緒におぼえたいと思います。「主よ、とこしえに / 御言葉は天に確立しています。」

この言葉が与えられています。私たち人間は、神の言葉と共に生きるよう招かれています。時代の言葉にまさる言葉と共に。時代の流行に流されない言葉とともにあるように。

しかもいつも新しく、親しく語りかけられる存在であるよう、招かれています。

神の言葉によって自分自身をよりよく知るように。そして、よく支えられるように。

守られていることの平安をいただき、信頼をもって生きるように。

天において確立している言葉が、イエスが語った、揺るがない、確かな拠り所を私たちに与えてくれます。

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