クリスチャンライフQ&A

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聖書の言葉

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

新約聖書 ヨハネによる福音書 12章1節~8節

吉田謙によるメッセージ

おはようございます。私が担当させていただく時には、クリスチャンとして生きていこうとする時に生じる様々な疑問に対して、聖書の御言葉から教えられたいと願っています。

今日は、何故、クリスチャンは色んなことを犠牲にしてまで、礼拝を重んじるのか、ということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

マリアという女性が、十字架を直前に控えたイエス様に、大変に高価な香油を全部注ぎ尽くしました。この時、マリアがイエス様に注いだ香油は、当時の労働者の一年分の給料に相当するぐらいの分量であったと言われます。それを見ていたイエス様の弟子ユダは、マリアにこう言い寄りました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」これはユダでなくても、誰もが考えるような、極めて常識的な判断ではなかったかと思います。ところが、イエス様はその常識的な判断に対して異議を唱えられました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と。

ユダヤでは死んだ人の体に香油を塗って葬るという習慣がありました。「マリアのした行為は、私の葬りのための奉仕であった」こうイエス様は説明なさったのです。普通は死んだ後で香油を塗るんですけれども、しかしイエス様は、このマリアが注いだ香油を、「私の葬りのための香油として受け取る」と言って下さいました。そして、「貧しい人はいつもいるのだから、あなた方はいつでも仕えることが出来る。しかし、この香油を私に塗るという奉仕は、今でなければ出来ない」こう言って、イエス様はこのマリアの捧げ物を喜んで受け取って下さったのであります。

この物語の中に、私たちが何故、礼拝を最優先にすべきなのかが、はっきりと示されていると思います。

「これだけ捧げることが出来るならば、もっと人のために有意義に使うことが出来るではないか」イエス様は、このユダの言葉に対してマリアを守られました。「貧しい人々はいつも一緒にいる。けれども、私に仕えるべき特別な時があって、マリアはそれに集中したのだ」と。イエス様だけに特別に捧げる時間、それはイエス様を知らない人にとっては愚かに見える時間なのかもしれません。クリスチャンの中にも、礼拝を捧げる時間があるのなら、もっと目に見える役立つことをしたい、ということを主張される方が時々いらっしゃいます。けれども、それは結局は今日のユダの言葉と同じなのです。キリストを裏切り、キリストから切り離されることになってしまう。結局、それは私たちが人に仕える力さえも失っていく第一歩なのです。イエス様にお祈りをしたから、沢山の時間をそのために使ったから、その人の生涯は人に仕える生涯ではなくなった。そんな話は未だかつて聞いたことがありません。けれども、反対のことはよく聞くのです。信仰を失った人が自分のためだけに生きている、と。多くの方々のために献身的に尽くしたクリスチャンは、みんな礼拝の時を一所懸命に守る人たちでした。祈ることを一所懸命する人たちでした。皆さんよくご存じのあのマザー・テレサという人は、貧しく、虐げられている人々のために本当に沢山の働きをされた方です。しかし彼女にとって一番大切な時間は、祈りと礼拝の時間であった、と語っておられます。彼女は毎日、朝四時頃と夕方八時頃の二回、礼拝を守っていたそうです。「神様の前に出ている時間が私の力である」と彼女は知っていたのです。彼女は、毎日、毎日の礼拝の中で、イエス様に出会い、交わり、そこで力をいただいて、社会の片隅でひっそりと死に行く人たちの傍らに、そっと立ち続けたのであります。

私たちも、礼拝の時間を削ることによって、あるいは祈り、聖書を読む時間を削ることによって、家族や友人に仕えるのではなくて、まず一番大切な時間を取り分けて、イエス様に仕えていきたいと思います。

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