あなたがどこに行っても

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聖書の言葉

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

旧約聖書 ヨシュア記 1章9節

赤石めぐみによるメッセージ

「おはようございます。赤石めぐみです。」電波にのせてこうご挨拶するのも、今日で最後になりました。私たち夫婦は、伊丹教会で本日の礼拝をささげたあと、関西を去ります。2002年に神戸改革派神学校に入学するためにこちらに来て丸22年。この番組では2011年3月から13年間、2〜3ヶ月おきに司会のご奉仕をさせていただきました。ありがとうございました。

わたしはもともと関東の出身で、父の転勤などでだいたい6年おきに引っ越しを繰り返し、結婚後も、同じようなペースで転任になり、今いる伊丹にだけ、初めて10年を超えて定住しました。中学入学直前に静岡へ引っ越して、東京の母教会を離れなければならなくなったときが一番つらく悲しい引っ越しでした。早く戻りたい、戻りたい、と泣いていたものです。そんなときに、母教会の牧師夫人から、初めに読んだヨシュア記の御言葉が書かれている絵葉書でお便りが届いたのです。

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」。母宛でしたが、私も読ませてもらって、とても励まされたのでした。

それ以来、どこへ引っ越すことになっても、主がここでも共にいてくださるのだから、と思えるようになり、必要以上に悲しむことはなくなりました。しかし、関西に初めて住むようになった時には、神学校周辺がまだ家も少なかったころでしたので、東京が恋しくなり、さびしい思いになったことを思い出します。そもそも神学校へは、卒業後に遠い外国に行くつもりで学びに来ましたので、関西に来たくらいで寂しがっていてはいけない、と気持ちを奮い立たせたものです。そのときにもヨシュア記のこの御言葉を思い出していました。

「強く雄々しくあれ。」この言葉はもともと、イスラエルの民をエジプトから導き出したとき、約束の地を目前にしてモーセが死んでしまったあと、モーセの後継者ヨシュアに向かって神さまがおっしゃった言葉です。偉大な先輩指導者のモーセのあとを継いで、「イスラエルの民たちは自分の言うことを聞いてくれるだろうか」という不安の中にいるヨシュアに、主なる神さまが、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」と励まされたのです。「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。[…]この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい」と命じられました。

神さまが「わたしはあなたと共にいる」とおっしゃるとき、それは、ただ守護霊のようにそばにいて見守っている、という意味ではありません。「わたしがあなたに命じた言葉をあなたが忘れずに守り行っているとき、わたしはあなたと共にいる」という意味です。御言葉と共に生きることがすなわち主が共にいてくださる、ということです。

古代イスラエルの歴史を見ると、立てられた王もイスラエルの民も、主の言葉・主のご命令に従い続けることができず、周辺諸国の影響で神ならぬものを拝み始め、自己流の宗教生活になっていってしまい、国が滅びにむかっていきます。神さまから心は遠く離れているのに、「主はこう言われる」と言って、あたかも神さまがおっしゃっているかのように偽って預言する者が大勢あらわれました。そういう預言者の言葉のほうが人々にウケがよく、その当時、神さまの言葉を真実に伝えていた数少ない預言者エレミヤの言葉は大変な反発を受けました。「主はこう言われる」「主が共におられる」と信仰的に言っている人たちが、聖書を真実に語る預言者に反発したのです。

神さまはそんなイスラエルの民に向かってこう言われました。

「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。誰かが隠れ場に身を隠したなら、わたしは彼を見つけられないと言うのかと主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる。」(エレミヤ23:23〜24)

神さまは私たちの心の奥底まですべてお見通しです。私たちが御言葉と共に生きているか、主がお命じになったことを忠実に守っているか、見ておられます。ときには受け入れ難い御心が示された言葉に出会うこともあります。自分の罪と向き合うことになります。祈りが必要になります。そうして御言葉に従えるように変えていただきます。それなしに「主は共におられる」と言っていないか、自分自身を吟味したいと思います。

新しい地に赴くのに、不安が全くないわけではありません。しかし、わたしが信じて読み続けている聖書には、力強い約束の言葉がたくさん記されています。その御言葉がわたしと共にいてくださるなら、わたしは大丈夫、と思えます。これから行く地でも、「おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊」(二テモテ1:7)を燃え立たせて、強く雄々しく、うろたえず、おののかず、主と共に、主の御言葉と共に歩んでいけたら、と思っています。

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