主が担ったわたしたちの病

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聖書の言葉

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。

旧約聖書 イザヤ書 53章3,4節

赤石めぐみによるメッセージ

先週、私たちはイースターを祝いました。主イエス・キリストが復活されたこと、私たちに新しい命が与えられたことをお祝いしたのでした。「お祝い」なので、どうしても喜ばしい部分だけが語られてしまいがちですが、今日は、苦しみの部分、冒頭でお読みした御言葉で言われている「病を担う」「痛みを負う」ということはどういうことなのかをご一緒に考えてみたいと思いました。

イエス・キリストの受難の苦しみがどれほどのものであったか。聖書を読むだけではこの壮絶さをリアルに味わうことができません。そこでこの場面を音楽にしたり、映画にしたり、村を上げて受難劇を演じたりすることによって、感覚的に知ろうとしてきました。そうして、これは私たちのためであったと知ろうとしました。今は、映画を作らなくたって、現実に、攻撃を受けたり災害にあったりして、傷を負い、住む家を失い、絶望的な思いで過ごしている人たちの映像をたくさん目の当たりにしています。映像で見ればその人の苦しみがわかるのか?実際、これらのことに対して、私たちは心を痛めていますが、自分が同じ目にあってみなければ、その苦しみは、本当にはわからない。また同じ目にあってみたとしても、やはり、ひとの苦しみを本当に理解することは困難です。

19年前の今頃、神学校の最終学年だった時、わたしは婦人科系の病気を発症し、2度の手術を受けました。1回目の手術は、医者の見込みよりも症状が重かったため、成功しなかったので、手術後すぐに救急車で別の病院に運ばれ、次の手術を待つことになりました。次の手術の日までの期間は、死を意識しました。入院生活は痛みとの闘いでした。激しいお腹の痛み。麻酔から覚めた時に感じる手術の傷の激痛。「主は病を担い、痛みを負ってくださると言われるけれど、痛みはやっぱりわたしの痛み。イエスさまの十字架の苦しみに比べれば大したことはないのかもしれないけれど、実際、痛くて耐えられない・・・。イエスさまが痛みを軽減してくださっているようには思えなかった。」当時を振り返って書き残したものに、そう書いてありました。また、自分の痛みだけでなく、壮絶な現実を抱え、その病と闘っている人たちのそばで寝ていなければならなかったこと、それに対して自分が何もできなかったことの苦しみがありました。「ただひたすら、自分のために聖書を読むことしかできませんでした。本当に救いが必要な人たちに、どう言葉をかけたらいいのかわからない。入院中、お腹の痛みと共に、この悩みに苦しみました。」

ひとが味わう肉体の苦難を担うこと、痛みを負うことは、だれにもできない、と思います。失礼な話ですが、わたしはイエスさまにだってできない、とあの当時・あの苦しみのさなかでは感じたのでした。それは、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」という御言葉を、十字架の上での肉体的な苦しみに限定して読み、実際の痛みを本人と同じように感じて、その上でそれを取り去る・軽減する、という意味でとらえていたからでした。

「担う」とか「負う」と訳されている言葉は、上方向に持ち上げる、という意味の動詞と、忍耐するという意味の動詞が使われています。そして「病」「痛み」というのは、体の症状・肉体的な痛みという、表に出てきているものではなく、病気などによって、傷つき、どんどん落ち込み、病んでしまう心の状態を指していて、救い主はそうなってしまった心をアゲてくださる、痛みに耐えられるようにしてくださる、ということを言っているようです。だとすると、「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」というのは、イエス・キリストがご生涯の中で病む人をいやし、悩める人を救われた数々の御業のことを言っていて、決して十字架の上での苦しみだけのことを言っているのではないことに思い至ります。そして、そういうイエス・キリストを人々は軽蔑したのでした。十字架につけられるときのののしり声はその最たるものでした。イエス・キリストはそれを、私たちのために耐え忍んでくださったのでした。病や苦しみや悩みの中にあるときに私たちが聖書の言葉を読んで励ましを受けるのは、救い主が私たちの病んだ心・落ち込んだ心・罪悪感にさいなまれた心をアゲて、困難な状況に耐え忍べるようにしてくださっているからなのですね。

私たちにはイエス・キリストのような病の担い方(根本的に罪の問題を解決するようなこと)はできないのですが、心をアゲる、ということはお見舞いの仕方に応用できるのかもしれません。そういえば、当時婚約者だったわたしの夫は、病院にお見舞いに来てくれたとき、わたしの痛みには無関心のように同情的な言葉は言わず、笑わせるようなことばかり言うので、手術したばかりのお腹が痛かったことを思い出しました。夫はまた、8年前の熊本地震の時にも、現地を数日訪問したときに、「Kさんと夏目漱石の話で盛り上がったよ」などと報告するので、大変な思いをされている時にそういう話?と思いましたが、つらさを忘れられるひとときになったらしいことを聞いたことも思い出しました。一瞬軽蔑してしまいそうなこの夫の言動ですが、落ち込んでいた心は確かにアゲられていたように思います。

そんな夫と共に、まもなく、私たちは横浜にある青葉台キリスト教会というところに転任します。少し痛みを経験した教会だと聞いています。私たちは聖書の御言葉を携えて、主イエス・キリストと共に、その痛みを負いたいと思っています。十字架の主イエス・キリストの姿を胸に刻みつつ、「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53:5)と共々に告白できるように、新しい教会で、御言葉を聞き直していきたいと思っています。

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