見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章29,30節

ステファン・ファン・デア・ヴァットによるメッセージ

今日はイースターで、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を思い巡らす特別な日です。

朗読した聖書箇所に関連して、十五世紀の有名なドイツの画家、マティアス・グリューネヴァルト、という人は印象的な絵をヨーロッパのある修道院の病院で描きました。その絵は「イーゼンハイム祭壇画」と呼ばれています。この絵において、手は重要なテーマです。例えばイエス様のお母さんのマリアと、マグダラのマリアの祈りを表すようにかかげられた手、母マリアを抱いているこの福音書を書いたヨハネの手、そして釘で十字架に打ち付けられた、イエス様の捻じ曲げられた手はもっとも私たちの目を引きます。

洗礼者ヨハネの手も印象的です。片手で何か本、おそらく聖書の一部を持って、そしてもう片方の手で十字架にかけられたイエスを指差しています。ヨハネはラテン語でヨハネの後ろに書かれている言葉、つまり「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と叫んでいるようです。彼の人差し指は特に大きく見えます。実は彼の体全体はこの指に象徴されています。最初に朗読した通り、イエスキリストのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と示すことこそが、洗礼者ヨハネの務めなのです。彼の全ての人格、つまり彼のアイデンティティーはこの務めに占められているからです。

近頃よくアイデンティティーのことが話題になります。色々な意味で、世界中で重要な社会的テーマにもなりましたし、キリスト教会の中でも大切な課題になりました。教会とはいったい何なのか。この社会の中でどんな務めがあるのか。神様から与えられた召命の核心、その中心は何か。一人一人のキリスト者の具体的な役割は何なのか、ということが問われているのではないでしょうか。今日のヨハネによる福音書1章には、このクリスチャンアイデンティティーの問題に対して、有意義な、そして明確な答えがあると思います。

洗礼者ヨハネは、当時の人々に受け入れられないメッセージを伝えるために召されたのです。神の裁きについて周りの人々に伝えなければなりませんでした。彼は、裁判における目撃者のように、自分が見たことについて証ししています。彼のメッセージの内容はその時代の指導者たちにとって、とても衝撃的でした。ですからエルサレムの祭司長たちと最高法院の代表たちは、このようなことを語るヨハネとはいったい何者なのか、ということを正式に尋ねるために彼のもとへと行きました。

ヨハネは色々なところで説教したり、大勢の人に洗礼を授けたりしましたので、祭司長たちは絶対に彼のアイデンティティーをつきとめなければならなかったのです。彼らはあたかも裁判所の審問でヨハネを事情聴取するように追求しました。

「エルサレムのユダヤ人たちが…『あなたは、どなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、『違う』と言った。」(ヨハネ1:19,20)「エリヤですか」と尋ねたのは、その当時、ユダヤ人たちはメシアが来る前に、旧約聖書の預言者エリヤが復活して現れると確信していたからです。

けれども、ヨハネは、この2つめの質問にも「違う」と言いました。質問した人たちは彼の本当のアイデンティティーがよくつかめません。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、三回目も否定して「そうではない」と答えた。「あの預言者」もエリヤのように、おそらくメシアが来る前にくるはずだと、思われている人でした。

この否定の応答をして洗礼者ヨハネは退きました。彼が退いたからこそイエスキリストの上に光が照らされました。実はヨハネがこのように三回否定する前に、すでにヨハネについては1章8節にこう書かれていました。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と。ですから、彼の最初の応答は特に印象的ですね。「あなたは、どなたですか」と質問されたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。この答えは私たちにとって、とても重要な応答です。

ヨハネによる福音書では、「証し」とか「証しする」という言葉が頻繁に出てきます。このことによって、キリストに従っていきたいと願う私たちの主な務め、あるいは役割は、明らかだと思います。生き証人としてヨハネのように証すべきだ、ということです。ヨハネは「わたしはメシアではない」と自分のアイデンティティーを言い表しました。

私たちも自分の言葉で次のように言い換えることができると思います:「私は、あなたが憧れている者ではありません。私は救い主ではなく、永遠の命の言葉も持っていません。もしこれら全てを私のところに探し求めるならば、それは間違っています。あそこです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

このように改めて、イースターに甦られた主イエスキリストを指さして、私たちの言葉と行いを通して良い証を実現しませんか。

関連する番組