クリスチャンライフQ&A

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聖書の言葉

では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 6章1節~2節

吉田謙によるメッセージ

おはようございます。今日から、しばらくの間、私が担当させていただく時には、クリスチャンとして生きていこうとする時に生じる様々な疑問に対して、聖書の御言葉から教えられたいと願っています。

イエス・キリストを信じるだけで救われる、行いは全く関係ない、このように聖書は教えます。では、クリスチャンは、良い行いを、どうでもよいこととして捨ててしまったのでしょうか。今日は、このことについてご一緒に考えてみたいと思います。

「飴と鞭」という言葉があります。これは、言うことを聞けば飴が与えられ、言うことを聞かなければ鞭が与えられる、というものです。この「飴と鞭」という教育方法は、動物に芸当を仕込む時には比較的有効な手段である、とも言われています。けれども、人間を教育する時には、これだけでは駄目です。もし、自分の子供をこの「飴と鞭」だけで教育したならば、どうなるでしょうか。「飴と鞭」「条件つきの愛」「良い子ならば愛する」「悪い子ならば突き放す」もし、こういう条件つきの愛だけで子供を育てたならば、その子の心は健やかさを失う、その子の心には本当に人を愛するような優しさや豊かさは育たない、これはおそらく、もう常識になっているような事柄ではないかと思います。そしてこれは、神様の前で生きる人間にも、同じことが言えるのです。「飴と鞭」、これだけでは、人間は神様を愛し、人を愛する心を育てることができません。

聖書の中には、「あれはしてはならない」「これもしてはならない」「あなたがたはこのように生きなさい」という沢山の戒めが記されています。けれども、本来、この神様が与えて下さった戒めは、神様の豊かな愛から生み出されたものでした。「あれができるから愛する、これができるから愛するというのではない、あなたの存在そのものが愛おしい。あなたは私にとって、掛け替えのない、決して失われてはならない、高価で尊い存在なのだ」そうやって、全くの恵みによって、無条件の愛によって、神様はイスラエルの民を選び、愛し、救って下さいました。あの有名な「十戒」の戒めが与えられた時もそうでした。当時、イスラエルの民は、長い間、エジプトの国で奴隷の生活を強いられていました。あの時、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救い出されたのは、何も彼らが戒めをきちっと守り、立派な生活をしていたからではありません。彼らはただ嘆いていただけです。神様はそういうイスラエルの民の嘆きを聞いて下さり、一方的な恵みによって救い出して下さいました。そして、救い出された後に、「あなた方は、この救われた喜びをこのようにして表しなさい」と、あの十戒の戒めが与えられたのでした。神様は、イスラエルの民がエジプトの地で苦しんでいた時に、十戒の戒めを与えられて、この戒めを守ったなら、あなた方を救ってあげよう、しかし、守らなかったならば、残念ながらあなた方を救うことはできない、こう言われたわけではなかった。そういう飴と鞭が示されたわけではなかったのであります。そうではなくて、全く無条件に救い出して下さり、その後で、「救われたあなた方はこのようにして生きなさい」と十戒の戒めが与えられたのでした。このように、神様が与えて下さった戒めの根底には、本来、神様の無条件の愛があったのです。

数年前に「パッション」という映画が上映されました。イエス・キリストの最後の十二時間を見事に描いた映画です。あの映画を見ますと、神様が貫こうとなさった愛が、いかに壮絶なものであったかがよーく分かります。あの映画を見て、イエス様の十字架の本当の苦しみを知った人は、もう呑気に生きることが出来ないと思います。他でもない、この私を救うために、あんなにも壮絶な苦しみをイエス様は担って下さった。もうボロボロになって、血まみれになって、それでも最後の最後まで私たちへの愛を失うことがなかった。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」こう祈られながら、十字架の上で息を引き取られたのであります。あんなにまでして必死になって、一所懸命になって私を愛し抜いて下さった。救おうとして下さった。私の神であり続けようとして下さった。これが神様の愛です。あれほどまでに凄まじい神様の愛を突きつけられて、なお呑気に生きれるようなクリスチャンはいないと思います。神様の愛に感動して、本当に悔い改めた人は、「行いによって救いが左右されないのなら、やりたい放題、好き勝手に生きよう」という甘ったれた考え方にはならない。不完全ではあるけれども、この神様の愛に少しでもお応えしたい、自分として出来る限りの誠実を尽くしたい、真実に生きたい、そう思う。当然のことでしょう。クリスチャンにとっても行いは大切です。しかし、それは救われるための条件ではなくて、一方的な恵みによって救われたことに対する、神様への感謝のしるしなのであります。

もう飴も鞭も関係ありません。地獄が怖いから、天国に入りたいから、良い行いをするのではない。イエス・キリストの十字架の愛に捕らえられた人間は、決して強いられてではなくて、自発的に、神様に対する感謝の思いで、喜んで良い行いを積み上げていくのです。

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