恐れにとらわれるときは

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聖書の言葉

すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。

新約聖書 ルカによる福音書 1章64節

國安光によるメッセージ

主イエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節を迎えています。12月に入り、クリスマスの讃美歌の音色を耳にすることがあるのではないでしょうか。この時期になると、学生時代、あるいは教会で、練習した讃美歌の思い出が心に湧いてくる方もおられるかもしれません。

讃美歌は、神様を賛美する心から生まれました。神様に、「あなたは大いなる方です、わたしを救うことのできる唯一のお方です、どうかあなたが私の悲しみを、痛みを包んでください」、そう祈る心から讃美歌が紡ぎ出されました。「讃美歌を聞くと、不思議と心が落ち着くの」、そんなお声を最近お聞きしました。

さて今朝はある一人の老齢に達したザカリアという人の賛美を紹介します。イエス様の御降誕と関わるお話です。64節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」ザカリアは、神を賛美し始めた、とあります。どうしてザカリアは神を賛美したのでしょうか。

聖書には、こうあります。年老いた祭司ザカリアに主の御使いがあらわれ、妻エリサベトは聖霊によって身ごもり、その子は神のために準備された民を備えるために生まれてくる、という知らせが届きます。その名をヨハネと名付けるように。その神の時が来るまで、ザカリアは口をきけないようにされます。

やがて主の御告げどおり、老齢に達した夫妻に、待望の男の子が与えられたのです。そのことは近所の人々や親類に知れ渡り、主の慈しみのゆえにザカリアとエリサベトに子を与えられたことを大いに喜び合いました。そして彼らは、父の名を取ってザカリアと名付けようとします。

ところがエリサベトは、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません。」(60)とはっきりと告げます。おそらく夫ザカリアから、筆談で「ヨハネと名付けるように」と聞いていたのだと思います。しかし人々はヨハネという名は、親族にいない珍しい名だったので、納得しませんでした。そこで彼らはザカリアも「この子に何という名を付けたいか」(62)と手振りで尋ねました。

するとザカリアは字を書く板を持って来させました。「字を書く板」というのは、平たい木の板にロウを薄く塗り、そのロウをひっかきながら字を書く、ロウ引き板のことだと思われます。これを使ってザカリアは、「この子の名はヨハネ」と書いたのです。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」のです。

ザカリアの神賛美は、沈黙の中から生まれました。エリサベトがみごもってから子を出産するまでのおおよそ10か月の間、口が利けなくなりました。ザカリアは自分の言葉を一時、失います。ザカリアは沈黙の時を、神に思いを集中し、神の御前に自分自身を置き、聴く者となったのだと思います。

詩編46編11節には「力を捨てよ、知れ、わたしの神。」とありますが、ザカリアは、言葉を置き、自分の力を捨て、神を畏れ、知るものとされたのです。それから神を賛美するのです。

ザカリアは特別に神に選ばれ、神から啓示を受けた者です。そういう意味で、私たちとは違います。しかし私たちはザカリアから教えられます。待降節を迎えた私たちは、まず神の御前にあって、心を静めます。心を静め、一旦、自分がしようとすること、考えることをやめ、神のなさることを待つ。神の御力を信じ、ひれ伏し、礼拝をささげるとき、憐み深い神を知るものとされ、そこから賛美を紡ぎ出されます。沈黙は賛美へと変えられるのです。

さてザカリアの賛美の言葉にはこのようにあります。76節「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」こうあります。

幼子よ、とはヨハネのことです。ヨハネが担う役割について、主(イエス・キリスト)に先立って行き、その道を整える役割を担う、と言われます。その時代、ユダヤの民はイザヤを通して語られた神の約束を信じ、救いの道が整えられることを待ち望んでいました。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、皇帝ヘロデの圧政の下で苦しめられていました。彼らはローマ帝国からの解放を願い、ローマ帝国からの勝利をもたらす英雄が解放の道を開いてくれる、そういう期待を抱いていました。

しかしザカリアが賛美した救いは、当時のユダヤの人々が期待するような救いではありませんでした。罪の赦しによる救いです。「ヨハネ」という名は、「主は慈しみ深い」または「憐れみ深い」という意味の名です。ヨハネは神の独り子を指し示す役割、神の子が与える罪の赦しという光を証しする役割を担うのです。

私たちは、クリスマスへ向かうこのとき、賛美をささげることがゆるされています。救いはどこにあるのか。罪の赦しの中にある。そこに暗闇を照らす光がある。その光を待つ思い、罪の赦しを待つ思いが賛美となって紡ぎ出されていきます。

私たちは困難を味わい、苦しみの中を通らなければならない時、涙が頬を伝う時もあります。暗闇があるかもしれない。沈黙の時があります。しかし私たちに主は罪の赦しの恵みを注いでくださいます。ヨハネ(主は憐れみ深い)ゆえに罪の赦しの中で、私たちは沈黙へと向かいます。主は私たちを賛美を口ずさみながら、天への道を歩む幸いへと招いておられます。

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