一粒の麦

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聖書の言葉

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの身を結ぶ。

新約聖書 ヨハネによる福音書 12章24節

西堀元によるメッセージ

高校生の社会のテストの時でした。先ほどお読みした聖書の言葉が試験問題にでました。この聖書の言葉は次のように続きます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」。試験問題はこの聖書の言葉の意味を書きなさいというものでした。楽勝だと思いました。わたしはクリスチャンホームで育ったので、聖書の言葉には子供のころから親しんでいたからです。

わたしは得意げに書きました。「これはイエス・キリストが、人が信仰をもって生きる姿を教えたものである。自分の人生をささげて生きることを勧めている。その中には自分の命をキリスト教の伝道のために捧げた人もいた。一粒の麦が落ちて、死ぬというのは、自分の命をささげることで、より多くの人キリスト教の教えに導くことだ」。ずいぶん昔のことで、はっきりは覚えていませんが、およそこんな回答をしました。自分はクラスの仲間よりもキリスト教のことが分かっていることを、口にはしませんでしたが自慢げに思っていたのです。

家に帰り、テストの問題をこんな風に書いたと親に話しました。親は一言、私の間違いを指摘しました。「一粒の麦」というのは、わたしの書いたような意味もあるけど、むしろ「一粒の麦」はイエス・キリストだと言われたのです。頭をガーンとたたかれたように感じました。得意げに書いたことを恥ずかしく思いました。今もそんなに変わっていないかもしれませんが、わたしは思いあがっていました。イエス・キリストに従っていくことは、自分の力でできるとことだと思っていました。言い換えると、よい人に自分の努力でなれるのだと思っていたということでしょう。何でも自分がやれば目の前は開ける。信仰も同じだと考えていました。

イエス・キリストには12人の弟子がいましたが、その筆頭の弟子はペトロといいます。彼は率直な人でした。何でも思ったらすぐに行動に移して、失敗をする。憎めない人です。このペトロはイエス様にどこまでも従っていくことができると、自信をもっていました。「あなたのためなら命を捨てます」とまで彼は言い切りました。イエス様のためなら、たとえ火の中、川の中でも着いていくと言いました。でもイエスが十字架に付けられるために逮捕された時、ペトロは自分の命を守るために、三回イエス様との関係を否定してしまいました。三度とは、聖書では完全を意味します。つまりペトロはイエス様との関係を完全に否定しました。自分を愛してくださったイエス様を裏切った。弟子失格と言ってもよいでしょう。

しかし、復活されたイエス様は、ペトロに現れてくださいました。そして三回「わたしを愛するか」と質問されました。ペトロが三回否定したので、イエス様の方からも三回質問をしました。もしイエス様がペトロに現れてくださらなかったらどうでしょうか。おそらくペトロは、イエス様を裏切ったという心の傷を一生かかえていきなければならなかったでしょう。イエス様はペトロに現れてくださり、隠しておきたかった傷にふれてくださいます。傷は隠しておくともっとひどくなるからです。このようにしてペトロは立ち直りました。

こうしたペトロの話は私には自分の話のように聞こえます。ペトロのように、私もイエス様に自分の力でどこまでもついていけると思っていました。でも自力でイエス様についていこうとする思いはあっけなく失敗しました。自分の力でイエス様についていくどころか、自分がクリスチャンという名前がふさわしくないことを思わされることがありました。他の人を傷つけ、自分を傷つけてしまいました。もう駄目だと思った時もありました。自分が身ぐるみをはがされて神様の前に一人にされていることを感じた時もありました。しかし、その時、逆説的に聞こえるかもしれませんが、神様の恵みが目の前にあることを信じることができました。ペトロのようにイエス様を裏切った者に、一方的な神の恵みが与えられたのです。

私たちは自分勝手なので、「一粒の麦」のように自分をささげることが、ヒーローのようになれるのなら喜んでするかもしれません。ペトロも勘違いしていたのでしょう。「一粒の麦」となることは、麦の粒が地面に埋められるようなことが必要なのです。自分に死ぬことです。誰もが避けたいことではないでしょうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」。これはイエス様の十字架のことを示しています。私たちが救いをいただくために、イエス様はご自分の命をささげてくださったのです。皆が馬鹿にするようなカッコ悪い死に方をイエス様はしてくださったのです。私たちの罪を背負い、私たちの代わりに神に捨てられました。

私たちは自分の人生を冷蔵庫の果物のように大事にしまっていないでしょうか。あまり保存しておくと果物は腐ってしまいます。同じように自分のために命を用いるならその人生は幸せではありません。イエス様を十字架に引き渡すまでの神の愛がその人の中心に宿るなら、その人は自己中心の生き方が変えられます。自分の人生を自分用に保存することをやめます。そしてその人は種を蒔くように、自分の命を他の人のために用いることができるようになるのです。私の人生を自分のために使うことは幸せなようで、本当は寂しいことです。神の愛が私たちの人生を十分に生かすことができるようにしてくださいます。

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