後で分かるようになる

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聖書の言葉

イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章7節

吉田実によるメッセージ

今お読みいたしました箇所は、イエス様が十字架にお掛かりになる前に、弟子たちの足を洗われた時の記事です。この時ペトロはどうしてイエス様が自分たちの足を洗ってくださるのか、その意味が分かりませんでした。そして「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と尋ねました。それに対してイエス様は「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。つまり、その時には何のことか意味が分からないことでも、後になって深い意味があったことを悟ることが出来る日が来る。そういうことがあるということです。

実はこの御言葉は、一昨年亡くなりました私の妻の父が愛した御言葉でした。彼は高校生の時に英語を学ぶために宣教師のところに通うようになり、そこで福音に触れ、イエス・キリストを信じて、高校生の時に洗礼を受けました。けれどもそのあと肺結核にかかりまして、片方の肺を切除するという大きな手術をしまして、結局それから7年間入院することになったそうです。そのとき彼は「僕は洗礼を受けてキリスト者になったのに、どうしてこんな病気に罹らなければならないのか。どうしてイエス様は癒して下さらないのか」と、思い悩んだそうです。これから大学に行って勉強しようと思っていた矢先に病気になって、同級生たちにも先を越されて、悔しい思いもしたことでしょう。神様を信じて洗礼を受けたのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのかと、彼はいろんな人に尋ねたそうです。けれどもなかなか納得いくような答えは返ってきません。そんなある日、巡回伝道で来られたある牧師に「どうして僕はこんな目にあわなければならないのですか?!」と尋ねたときに、その先生が教えて下さった御言葉がこの御言葉だったのだそうです。文語訳聖書で『わが爲すことを汝いまは知らず、後に悟るべし』という御言葉です。彼のその後の人生は、まさにこの御言葉が実現して行った人生であったと言えるでしょう。

彼は子供の頃、学校の先生に難問奇問をぶつけて、先生が答えられなくて四苦八苦する様子を見ては面白がって、「ざまあみろ」と思うような傲慢なところがあったそうです。「そんな自分がもしも病気をせずにすぐに東京の大学に合格して上京していたら『俺が革命を起こしてこの世の中を変えてやる!』と高ぶって、おかしなことをしていたかもしれません。そんなことにならないように、神様が私の傲慢を病気を通して打ち砕いてくださったのですよ。今になって分かります」。彼は生前、そんなふうに話してくださいました。実際にもしもそんなことになっていたら、彼はキリスト者としての人生を歩んでいなかったでしょうし、奥様とも出会っていなかったでしょうし、子どもたちもこの世に存在しなかったでしょう。ということは、私自身も妻と結婚していませんでしたし、牧師にもなっていなかったでしょう。そんなふうに考えますと、私たちは彼の弱さと苦悩の中から始まった神の国の物語の「登場人物」なのだと言えます。高校生の若者が病気になって7年間も入院するということは、それは永遠にも思えるような長い長い苦悩の日々だったと想像いたします。けれども、そんな彼の苦悩の7年間の中で、神様の素晴らしいご計画が深く静かに育まれていたのです。そういう意味で、わたしたちの家族は彼の「強さ」ではなく「弱さ」の中から神様が始めてくださった素晴らしい「神の国の物語」の中で生まれ、出会った「登場人物たち」なのです。そしてこの素晴らしい物語は、子どもたちや孫たちや、彼に導かれた人たちを通してこれからも進んで行きますので、その全貌を悟ることが出来るのは、さらにもっともっと後のことでしょう。

ラジオをお聴きの皆様の中にも、どうしてこういうこと起こるのかと、理解に苦しむような出来事に遭遇しておられる方がおありかもしれませんし、もしかすると大きな試練の只中にあるという方もおられるかもしれません。そしてそのような中で、人を恨んだり運命を呪ったりしても、何一つ良いことは生まれません。けれども、この天地をお造りになり、私たちのことを御自身の独り子の命と引き換えにしてくださるほど愛してくださる全能の主なる神様と出会うなら、その時には意味の分からない理不尽な出来事も、やがては「そうだったのか。すべてはこのためだったのか」とわかる日が必ず参ります。是非お近くのキリスト教会の日曜礼拝に足をお運びください。すぐには分からなくても、「私の人生はあの日から大きくわかりました!」と、喜んで証し出来る日がきっと来ます!

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