イエスを捜す

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聖書の言葉

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

新約聖書 ルカによる福音書 2章49節

宇野元によるメッセージ

大切な存在がいなくなる。その存在を懸命に捜す。心に痛みをおぼえながら捜す。不在の悲しみを味わいながら。だれもが経験する、私たち人間の事実があります。そして、そのようなとき、私たちは思います。共にあったとき、どれだけ近くいたか?大切な存在を、どれだけ理解していただろうか?

共にある――このことは、ふだんの、何事もないかのようなときに、それだけ身近で、いつも親しく感じられるという事情ではない。このことは、神との関係についても当てはまるでしょう。神が共におられます。このことの深さを思い巡らすようみちびかれます。何事もないかのようなときに、私たちは、それだけ神に近い、そういう事情ではありません。神が共におられる。このことは、私たちにとって、恵み深い事実です。私たちの生活原理や、ライフスタイルの枠のなかに収められない事実です。

福音書に、両親がイエスを捜した出来事が記されています。二人は大切な存在を見失い、三日間、懸命に捜しました。意味ぶかいことです。彼らはエルサレムの神殿に赴きます。そこから来たのですが、もういちど引き返します。するとそこでイエスに再会します。そして、とても面白いと思います。なぜ、わたしを探し回るのか、と言われてしまいます。立場が逆転していますね。親が子に学ぶ者になっています。

ルカ福音書は、このときの様子を、私たちの目に浮かぶように記しています。少年イエスは、学者たちに囲まれ、その真ん中に座っていて「話を聞いたり、質問したりしておられた」。

今もユダヤの人々のあいだに残っております。大人たちの間に、まだ幼さを残す、子どもが座り、聖書について、またその解釈について語り合う、その交わりに加わることがゆるされます。一人の大人のように扱われます。自由に発言できます。12歳のイエスは、「話を聞いたり、質問したり」しておられました。ユダヤの人々の対話的な学びの姿がうかびます。イエスは「真ん中」におられました。神の言葉が、学者たちをとおして語られていたでしょう。それに耳をすまし、神のみ旨を聞き取っておられたと思います。イエスがいなくなったと思う。どこにいるのか?と思う。イエスは、神の言葉とともにおられます。

イエスを捜す。思えば、福音書にはそれが繰り返し記されています。イエスはしばしば、弟子たちから離れられた。一人、祈るために。一人、苦難を引き受けるために。弟子たちは、そのたびに、その存在を懸命に捜します。心に痛みをおぼえながら捜します。不在の悲しみを味わいながら。最後に十字架において、決定的な不在感を味わいます。けれども「三日」ののち、日曜日の朝、イエスに再会します。弟子たちはしばしの悲しみの時をへて、以前は気づかなかった深い事実を知るようみちびかれます。救い主が共におられる。その恵み深さを、より深く、より確かに知る者にされます。

困難なとき、助けがないかのようになります。自分は一人ぼっち、そうつよく意識させられます。

クリスチャンもそうです。クリスチャンが強がることは意味のないことでしょう。イエスの両親も、弟子たちもそれを体験しているのですから。イエスが見えない。このことが試練になります。そして「なぜですか?」と問いかけます。「なぜ、こんなことをしてくれたのです」。そう母親がたずねました。そのようになります。イエスは答えられます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。

イエスは十字架にかかる前の夜、弟子たちにこう語ってくださいました。「わたしがどこへゆくのか、その道をあなたがたは知っている」。しかし、弟子の一人が返します。試練のなかにある者たちを代表するかのように。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません」。

わたしたちも同じです。ときに心細い。「なぜですか」と問いかけます。

そのような時、ご一緒におぼえましょう。み子イエスは天の父と共におられます。そして、私たちのためにとりなしておられます。私たちの思いを超えて、近くいてくださいます。

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