悲しみを担うイエス様

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聖書の言葉

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。

新約聖書 ルカによる福音書 7章13節

金原義信によるメッセージ

イエス様はこの言葉を、一人息子を亡くした母親に語られました。どうしてこのようなことをいえるのでしょうか。深い悲しみにある人に「もう泣かなくともよい」と言われるのです。それは、悲しみのために泣いて厳しい日々を過ごしたはてに、望みを失ったままで終らない何かが、イエス様にはあるからです。その「何か」、イエス様が与えて下さる希望についてお話したいと思います。

イエス様がナインという町に近づかれたとき、ちょうど町から出てきた葬儀の列に出会われました。それは、やもめである母親の一人息子の葬儀だったのです。母と一人息子の二人で生きてきた、そのかけがえのない一人息子がなくなってしまった。どれほど深い悲しみかと思います。そんなとき、周囲の人達も言葉を失うのではないかと思います。12節「その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた」とあります。町の人達もこの母親のそばに付き添っていた。けれどもそれ以上何もすることは出来なかったのではないでしょうか。どうすることもできず、ただ一緒に歩くほか無かったのでしょう。そのような葬列に出会ったイエス様はこの若者を生き返らせて母親にお返しになったというのです。イエス様が死者を甦らせる力のあるお方であることが描かれます。同時に今朝は特に、イエス様が深い悲しみの中にあるこの母親にどのように向き合われたのかを見ていきたいと思います。

13節「主はこの母親を見て、憐れに思い」とあります。まずこの母親を見て、その悲しみを受け止められたのです。どのように受け止められたか。「憐れに思い」。ここで使われている言葉は福音書において神についてあるいはイエス様について用いられています。人間には出来ないけれども神様にはおできになる仕方で憐れまれた。そしてこの言葉は「内臓」を意味する言葉がもとになっています。命を司る内臓でもって深く感じ取る。だから「はらわたが痛む」という事も出来るのです。イエス様はこの母親を見て、この母親のゆえにはらわたが痛む、この母親の痛み・悲しみが自分の痛みとなってしまう。それほどにこの婦人の悲しみを担われた。これは私たちには出来ないことではないでしょうか。どんなに同情したとしても、その人の痛み・悲しみを自分のこととして、はらわたの底まで感じ取ってしまう、これを完全になすことはできない。結局本人にしか分からない悲しみがあるということになるのではないでしょうか。ある程度は出来てもやはり不完全にしか出来ないのだと思います。だからこそ、ここにあるような憐れみを持つことは神様・イエス様にしかできないのです。

このことは、この福音書が書かれた頃の人達には強い印象を与えたと考えられます。その時代、ギリシャの哲学が多くの人々に影響を与えていました。そこで考える神様は、その心が動くようなことはない、不動の神と考えられたからです。他から影響されて動くような神様は、神様らしくないと思われたからです。だから人の悲しみに、激しくはらわたが痛むほどに感じるなどというのは、そんなふうに人間に影響されてしまうというのは、神様らしくないということになるのです。

これはおそらく、深い悲しみの中で、あるいは理不尽な現実の中で生きていて、いくら神に祈っても何も変わらないと思えるような体験を多くの人達がしてきたからかもしれません。いくら叫んでも、頼んでも、神様は応えてくれない、動く事はないんだと思ってしまう。

しかしそれに対してイエス様は、神様にしかできないこと、本当にその人の悲しみ・痛みを完全に理解し、自分のこととして、はらわたを痛めるほどに受け止めて下さる。この婦人が何も話さなくてもイエス様の方からその人を見て、その悲しみを受け止めて下さる。そして死を打ち破る言葉を語って下さるのです。

イエス様の「憐れに思い」はどこまでいくのでしょうか。それはイエス様の十字架に至るのです。私たちが抱える死、そこからくる悲しみを、イエス様ご自身がすべて背負って下さっているお姿、それが十字架のイエス様です。そしてそこから復活されたから、私たちもまた、永遠の命・神に祝福された命を確信することが出来るのです。

詩編139編8節にこうあります。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。」陰府、死の世界、絶望、悲しみ、そう思っているところにあっても、そこに神様がおられる。死に打ち勝ったイエス様に出会うことができる。そして私たちはいのちの主にとらえられ、天の御国にまで導いていただけるのです。悲しみの涙が悲しみのままで終らないようにして下さるのです。

このイエス様を、私の悲しみを担う命の主として信じるところに希望があります。

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