救いの喜び

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聖書の言葉

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけていって持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

新約聖書 マタイによる福音書 13章44~46節

李東隼によるメッセージ

私は学生時代、交換留学生として来日し、多くの日本の方々にお世話になりました。日本の人々のために自分に何ができるかと真剣に考えた時、聖書の福音(良い知らせ)を宣べ伝えることが一番良いという日本宣教の志が与えられました。「福音」とは先ほど朗読しました箇所に出てくる畑に隠された「宝」、あるいは、探して見つけた「良い真珠」のようなものだと確信したからです。

今日の箇所はイエス様が語られた「天の国」についての二つのたとえです。一つは畑に隠された宝のたとえです。もう一つは商人が見つけた高価な真珠のたとえです。どちらも、「持ち物をすっかり売り払って買う」ほど、「天の国」はかけがえのないもの、全てを投げ出しても手に入れたいほど、価値があるもの、と教えています。

「天の国」の「天」というのは神様を表わします。つまり、「天の国」とは「神の国」と同じ意味です。これは場所のことではなく、「神の支配」を意味します。神様の支配は十字架によって成就されました。神様は私たちを愛し、独り子であるイエス様をこの世に遣わしてくださいました。神様は独り子を十字架にお与えになったほどに私たちを愛されました。十字架の赦しと愛を持って神様は私たちを支配してくださることが神の国です。神の国とは「救いの恵み」を表す言葉です。この「救いの恵み」を手に入れるために私たちの生涯の全体を捧げても惜しくない。「救い」はそれくらいの価値があるということを主イエスは二つの喩え話で教えられたのです。「救いの価値」は十字架を通して分かると思います。主イエスは私たちを救う為に十字架の上でご自分の命を捧げてくださいました。私たちの「救い」というのはそれだけの値打ちがあるということをイエス様は御存じでした。私たちが罪を赦されて生きることがどんなに素晴らしいことであるかをイエス様は知っておられ、私たちが神様を愛し、隣人を愛するものへと、変わっていくことがどんなに大きなことであるかを主イエスは御存じでした。そして、神様の愛の中で、私たちが神様と共に生きるということがどんなに幸福であるかを主イエスは御存じでした。ですから、主イエスは「神の国」というものは、すべてを投げ出しても手に入れたいものである。あなた方、一人一人の救いがそうだ、イエス様はこのように言われながら、私たち一人一人を救う為に自ら十字架の道を進んでくださったのです。主イエスは今日のたとえ話を通して私たち一人一人にこう語りかけておられます。「あなたが救われたのは、何よりも価値がある。 その救いを手に入れるためにあなたの生涯の全体を捧げても惜しくない、それくらい価値がある。」イエス様はこのように私たちに語りかけておられるのです。私の話ですが、私の家の宗教は仏教でした。中学校2年生の時に私は友達に誘われ、教会に行くことになりました。私はその友達と一緒に勉強したり、遊んだり、とにかく、その友達と一緒にいるのが楽しくて仕方がありませんでした。その友達が誘ってくれたので私は教会に通うことができました。その友達を通して私はイエス様に出会ったのです。思いもよらなかったことでした。クリスチャン家庭ではなかった私は教会でイエス様という宝を見つけたのです。コロサイの信徒への手紙2章3節にこう言われています。『知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。』聖書を通してイエス様のことを知れば知るほど、イエス様はかけがえのない宝であることが分かった時に私は喜びに溢れました。この喜びを一人でも多くの人々に伝えるために今も日本で福音を宣べ伝えています。

もう一方で良い真珠を探している真珠商人のように、ラジオを聴いておられる方も本当の平安を探し,自由をさがし,本当の救いを捜し求めておられるのではないでしょうか。私も振り返ってみると、イエス様に出会う前から自分は平安を探し、自由を探し求めていました。それがイエス様に出会った時にイエス様によって本当の平安、自由、希望が私に与えられました。これらはいくらお金があっても、いくら社会で出世しても、与えられないものです。イエス様に出会う時こそ、与えられる救いです。このラジオ番組を聴いておられる方々も、イエス・キリストにある平安、救いの喜びを豊かに味わうことができますように心からお祈りいたします。

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