御言葉の花束をあなたに

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聖書の言葉

草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

旧約聖書 イザヤ書 40章8節

赤石めぐみによるメッセージ

今日は「花の日」と呼ばれている日です。アメリカ由来の教会の記念日の一つですが、この日の礼拝は子どもたち中心に行い、礼拝後は子どもたちと一緒に花を持って施設を訪問する、という日です。日本の暦の「子どもの日」のようだとも言えるし、「敬老の日」のようだとも言える日です。私たちの教会でも「花の日」行事は行っていましたが、コロナの後数年間は実施できずにいます。今年はどうなるでしょうか。お花を贈ると、渡すほうも受け取るほうも、なぜか皆笑顔になります。花の美しさの力なのかな、と思います。

さて、そういうわけで、今日は花の話をしてみたいと思います。

神学校の同級生に、庭いじりが趣味で上手にたくさん花を咲かせる牧師がいます。赴任するたびにその教会の庭にバラを中心とした庭をつくっていて、それこそ今頃、バラやたくさんの花が見頃を迎えているはずです。そして咲いた花を庭から切ってきては、お連れ合いや教会の皆さまのために活けてあげている・・・。そんな彼を見ていて、牧師って庭師だな、と思ったことがありました。

牧師・説教者は、まことの庭師である神さまのアシスタント庭師だと思うのです。神さまが庭園のぬし。説教者はその元で手入れをする人。神さまは、御言葉の花畑から、教会に集う人に豊かに御言葉の花を届けたいのですが、それは庭師に任されています。ていねいに御言葉の取次ぎの準備をするなら、花は生き生きして、種類も本数も多いでしょう。庭師=説教者は、週日は神さまの御言葉の花畑で働いて、そこで花束を作って、毎週、教会の講壇に立ちます。

教会に集まる人は花瓶です。花瓶の私たちは、庭師=説教者から、いろんな種類の御言葉の花を活けていただきます。そして私たちは花瓶として、その花を保とうとします。毎日水を変えてやらなければ、花瓶の花がすぐ枯れてしまうのと同じように、私たちも毎日祈って聖霊を注いでいただいて、いのちの水を新しくいただきなおさないと、神さまから受け取った御言葉の花をすぐに枯らしてしまいます。よく保つことができれば花は長持ちし、次にいただいた花と共に、花瓶の花はすごく豪華になります。そうして、花瓶の花からキリストの香りがふんわりと香ります。そういう花瓶のようでありたいですね。私たちは自分が花ではないのです。花は御言葉。御言葉がわたしという花瓶で美しく咲いていてくれたら、わたしも美しく在れる・・・。そんなふうに思ったのでした。

とまあ、これは空想めいた話ですが、私たちが花瓶だ、というのには次の聖書の御言葉が背景にあります。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」

これはコリントの信徒への手紙二4章7~11節の御言葉です。

わたしという花瓶に活けられた花(御言葉)は、私たちが苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望しないように、力と慰めを与えてくれるもののようです。人に虐げられても神からは見捨てられない、試練に打ち倒されても滅ぼされない、という安心と希望を抱かせてくれるもののようです。それほどの力を持つ花が、自分という花瓶に活けられている。ハサミで切られても命が永らえるものとして活けられている。それはまるで、十字架の上で死んで復活されたイエスさまの姿のようでもあります。そういう宝・花・御言葉を、私たちは日々、あるいは週ごとにいただいているのです。私たちは、この宝・花・御言葉の香りをふんわりと放ち、命を保ち続けられるような花瓶でいたいものです。

そうであるなら、次に書いてあることにも同意できるのではないでしょうか。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時(いっとき)の軽い患難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:16~18)

またこの4章には、土の器のことを語ったパウロが、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と言っている言葉もあります(4:5)。神さまの庭園で、神さまに仕えて働く庭師=説教者の姿もここに記されているように思います。

天の父なる神さまは、私たちそれぞれの人生が美しく在れるように日々、御言葉をくださいます。私たちに日々命をたまわり、また、私たちを日々生かしてくださるのは、天の父なる神さまです。

「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。

御言葉に彩られた命がとこしえに立つのです。今日、あなたも教会で御言葉の花を受け取ることができますように。

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