希望に満ちた時を生きる

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聖書の言葉

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章18~20節

赤石めぐみによるメッセージ

時の記念日が近いですね。私たちの「時」の感覚は、使っている言語に支配されていると思います。たいていの方は、特に英語を習ったころから、現在の自分を中心として「過去・現在・未来」を強烈に意識するようになり、今に至るまで大きな影響を受けているはずです。わたしは神学校で聖書の原語であるヘブライ語を学んで、「過去・現在・未来」という時の3区分から解放されました。ヘブライ語には「過去・現在・未来」という概念がなく、完了か未完了かでとらえるのです。しかも、動詞の活用表は1人称単数ではなく、3人称単数が基本形。代名詞で言えば「彼」である神さまが基本。聖書は、「現在の自分」中心にではなく、「神」中心で考える言語で、神さまの目から見て完了したか、まだ完了していないか、という概念で書かれているのだ、と知ることができたのは、まさしく目からウロコでした。人は人生設計をいろいろに考えますが、そのとおりにいかないことが多い。わたしはこのヘブライ的な概念を知って、自分の人生について、人とは違った歩みをしていても焦りを感じることがなくなりました。

「過去・現在・未来」という3区分の時間感覚に支配されたままでいると、聖書の話はとんでもなく理解しがたくなります。神が世界を造られた?イエス・キリストが十字架の上で死に、三日後によみがえった?そんな昔のことが今のわたしと何の関係があるの?福音書は4つあって物語の順序が違う。どれがほんとうの時系列順で書かれたものなの?・・・というふうに、です。

ヘブライ語的に捉えると、「神が世界を造られた」という完了形は「だから今、この世界は神が造られたものとして存在している」ということを意味しています。「イエス・キリストは復活した」という完了形も「だから今、イエス・キリストは生きておられる」ということを意味します。未完了形で書かれている神さまの約束の言葉やご命令は、神の言葉であるがゆえにいつか必ず実現する、と信頼して受け止められ、待望されます。その約束の言葉やご命令は、昔の人たちにだけ与えられたものではなく、今を生きる私たちにも与えられているので、その言葉がいつかわたしに実現するのを待望することができるのです。そうすると、あの分厚い聖書のすべての物語を、自分の物語として読むことができるようになります。

イエス・キリストは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」とおっしゃいます(ヨハネ5:39)。聖書は、命の世界がどのように始まり、イエス・キリストが神さまの約束すべてに応えられる方・神さまのすべてのご命令を守る方としてどのように生涯を歩まれたか、その命はどうなるかを証ししています。人として生まれながら、神に完全に従った人がここにたった一人おられる。この人を見ること、この人に倣うことがキリスト者の信仰です。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブ11:1)イエス・キリストは癒しを必要としている人や目の見えない人に、たびたび、「あなたが信じたとおりになるように」とおっしゃって、病や見えない目を癒されました(マタイ8:13、9:29)。聖書に書いてある永遠の命の約束は、信じた者にはそのとおりになることが約束されています。

ユルゲン・モルトマンという神学者は「希望についての黙想」の中で、「信仰するとは、十字架につけられた方の復活によって突き破られたところの限界を先取的希望において(希望を先取りして)踏み越えることである」と言っています。突き破られた限界とは何でしょうか。真っ先に考えられるのは「死」ではないでしょうか。パウロは言います。「イエスを死者の中から復活させた方の霊があなたがたの内に宿っているなら、(神は、)あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ロマ8:11)。あなたが生かされること、あなたの命が約束されています。この言葉を、遠い未来の約束としてではなく、今にも実現する約束として読めますか?モルトマンはまた、こうも言っています。「神は人間を引き上げ、広大な展望を与え給うのに、人間はしりごみし絶望する。・・・神は人間を約束に値するものとし給うのに、人間は自らに期待されることを信じようとしない。それが信仰者をもっとも深く脅かす罪なのである。」「絶望とは神によって望まれることの不成就を、先走り勝手に先取りすることである。」「希望なしには信仰は崩壊し、僅かな信仰になり、遂には死せる信仰になる。人間は信仰によって真実の生活の道に至るが、希望のみがその人をこの道に留まらせる。・・・希望はキリストへの信仰を広げ、それを生かす。」(『希望の神学』より)

神さまの約束の言葉は完了・完成・成就へと向かっています。あなたがコップで水を受けるように自分という器を神さまに差し出したなら、約束は必ず実現するという希望であなたは満たされていきます。苦しい時こそ、自分に蓋をせず、この恵みを受け取れるように待っていてください。希望が注がれ、満たされていく時、パウロが言うように「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と、あなたも言えるようになり、死でさえも恐ろしいものではなくなり、今という時が永遠の意味を持つ今となり、イエス・キリストを近くに感じ、決して虚無的ではない、命の喜びを味わえる時となるでしょう。

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