キリストの愛に触れる

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聖書の言葉

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章34節

寺川和宏によるメッセージ

先週と今週の2回に分けて「ヨハネによる福音書」の13章34節の御言葉に聞いています。今回が「後編」となります。

前回は「キリストの愛」について考えて参りました。「キリストの愛」とは一つに「仕える愛」であると言えます。「仕える」ということは、自分が主人になることでも、上に立つことでもありません。あなたの隣にいる人を、下から支えていくことを意味しています。

そして本日の箇所で、主イエス・キリストは、「お互いに愛し合いなさい」と言われています。つまり、一方的にあなたが支えるだけではなく、隣にいる人も、あなたを支えてくれるのです。また、どちらが上でもなく、どちらが下でもありません。どちらも下から支えるのです。ここにキリストの愛があり、キリストの平和があるのです。

しかし、わたしたちは、何もないところから、「キリストの愛」で愛し合うことが出来るのでしょうか。本日はこのことについて、少し考えていきたいと思います。

私事で恐縮ではありますが、わたしが初めて教会に行ったのは、30歳を過ぎてからでした。当時、教会でパイプオルガンのコンサートがあると聞いて行ってみたいと思いました。しかし、初めて教会に行くということで、緊張をしていました。そんなわたしを、教会の皆さんが優しい笑顔で迎えてくださり、すこしホッとしたのを覚えています。

そして、コンサートの次の日には、「先日は、パイプオルガンのコンサートにお越し下さりありがとうございました」という手書きで書かれたハガキが家に届き、驚いたのを覚えています。現在は、仕事のやりとりもインターネットのメールで、やり取りする時代です。年賀状でも印刷されたものがほとんどです。そんな中で、手書きのハガキを送ってくださったことにとても感動いたしました。このことがきっかけで、もう一度、教会へと行ってみたいと思いました。そして、今に至っています。

はじめて教会に来たため緊張していたわたしを「笑顔で迎えてくれた」ことも「手書きのおはがき」も、これら一つひとつは、本当に小さなことだと思います。しかし、見逃されやすい、その小さな思いやりの中に、確かに「キリストの愛の片鱗」があったのです。このことを感じることが出来たのは、聖なる霊である、聖霊がわたしに注がれたからであると思います。

しかし、この時のわたしは、本日の聖書の箇所にあるように「お互に愛し合った」わけではありません。「一方的」に教会の皆さんから「キリストの愛」を受けただけでした。

しかし、お互いに愛し合うためには、まず「キリストに愛」に触れないと駄目なのだと思います。なぜなら、人は、何もないところからは人を愛することが出来ないからです。

本日の聖書の箇所である「ヨハネによる福音書」13:34で、主イエス・キリストは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われています。主イエス・キリストの弟子たちも、何もないところから「お互いに愛し合うこと」が出来たわけではありません。先に、主イエス・キリストの愛を受けていたからこそ、お互いに愛し合うことが出来たのです。

また、13:1にはこうあります。「イエスは、この世から父のもとへと移る御自分の時が来たことを悟り、この世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」このように書かれています。

つまり、弟子たちは先に、「この上ないキリストの愛を受けていた」のです。この「キリストからの愛」を知っていたからこそ、お互いに愛し合うことが出来たということなのです。

今は、本当に便利な時代で、礼拝の様子や、素晴らしい説教もインターネットの動画を通していつでも見ることが出来ます。同じように、この「キリストへの時間」の過去の説教もいつでも聞くことが出来ます。このことは、皆さまに説教に触れていただく機会として、本当に良いことであると思います。

しかし、説教と同時に、実際に教会に行って、牧師先生をはじめとして、教会のみなさんに触れることによって「キリストの愛」を知るということも多いのだと思います。しかしながら、本日の箇所の次の16節で主イエス・キリストは「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は、遣わした者にまさりはしない」と言われています。キリストの愛とは、究極的には、神様に背くという罪のために、神様から離れてしまった、わたしたち一人ひとりを救うために、十字架において自らの命をもささげてくださったことです。このことによって、愛なる神様のもとへと帰る道を開いてくださったのです。

つまり、クリスチャンの愛は、このイエス・キリストの愛に決して届くことはありません。そうではあるのですが、主イエス・キリストに倣う者として、一人ひとりが「キリストの愛」に生かされているのです。

この教会員一人ひとりの内にある「キリストの愛」に触れることによって、わたしたちの人生も「キリストの愛」によって新たな一歩へと歩み出すことが出来るのです。

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