キリストの愛とは

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聖書の言葉

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章34節

寺川和宏によるメッセージ

今週と来週は「ヨハネによる福音書」の13章34節の御言葉に聞いていきたいと思います。今回はその「前編」となります。

私事で恐縮ですが、わたしは昨年の4月より、奈良教会の定住伝道者となったばかりの者です。また、クリスチャンとなって14年目ですから、クリスチャンとしても、まだまだ経験の浅い者です。しかしながら、奈良教会には、70年、80年とクリスチャンとして信仰生活しておられる大先輩も多いです。そのような中で毎主日説教をさせて頂いています。本当に恐れ多いことではあるのですが、教会員の皆さんの内に「主イエス・キリストの愛」があり、いつも愛をもって支えてくださっていることに感謝をしています。

また、わたし一人がどれだけ頑張ったとしても礼拝をつくりあげていくことは出来ません。教会員の皆さんの支えがあって初めて教会が、教会として歩んでいくことが出来るということなのです。これから、わたし自身も、皆さんを支えていくことが出来るように祈りつつ歩んで行きたいと願っています。

さて、本日の御言葉には「互いに」という言葉があります。主イエス・キリストは「一方的に愛するだけでもなく、また、一方的に愛されるだけでもなく」「お互いに愛し合いなさい」と教えておられます。

しかも、ここで主イエス・キリストは「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」と言っておられるのです。ここで「わたし」と言われているのは「主イエス・キリスト」御自身です。つまり、「主イエス・キリストの愛」をもって、お互いに愛し合いなさいと言われているのです。

それでは「主イエス・キリストの愛」とはどのようなものなのでしょうか。それは、一つに「仕える愛」であると言えます。本日の箇所の少しまえの13章の始めでは、主イエス・キリスト自ら「弟子たちの足を洗った」という記事があります。この「足を洗う」という行為は、本来はしもべが、主人に対して行うことです。

しかし、ここでは反対に、主であるイエス・キリスト御自身が弟子たちの足を洗われたのです。そして、弟子たちに「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言われるのです。

ここで、主イエスは、単に「足を洗い合う行為を、真似しなさい」とこのように言われたのではありません。ここで、主イエスは、弟子たちに対して「お互いが、お互に仕えるように」と教えておられるのです。

「仕える」ということは、自分が主人になることでも、上に立つことでもありません。あなたの隣にいる人を、下から支えていくことなのです。それも、一方的にあなたが支えるだけではなく、隣にいる人も、あなたを支えてくれるのです。また、どちらが上でもなく、どちらが下でもありません。どちらも下なのです。ここに本当のキリストの愛があり、平和があるのです。

主イエス・キリストが十字架へと向かわれたのも、神の御子であるにも関わらず、へりくだって、わたしたちを救う為でした。神様に背くという罪のために、神様から離れてしまった、わたしたち一人ひとりを救い、神様のもとへと帰ることが出来るようにするためでした。

このことによって、背きの罪のゆえに離れてしまっていた、神様との関係を十字架の贖いによって回復してくださったのです。まさに、わたしたちのために、自らの命をささげられたのです。ここに、自らの命をもわたしたちにささげるという、「キリストの愛」があるのです。

「キリストの愛」について書かれた「あしあと」という詩があるので、ご紹介したいと思います。お読みいたします。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

あなたはすべての道において、わたしとともに歩み、

わたしと語り合ってくださると約束されました。

それなのに、わたしの人生の一番辛い時、

ひとつのあしあとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりせん。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

わたしは、あなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

あしあとがひとつだったとき、

わたしはあなたを背負ってあるいていた。」

クリスチャンが、「お互いに愛し合う」という時、この「あしあと」の詩にあるように、苦しむ人を実際に背負って歩くということは出来ません。本当に共に歩んでくださり、そして、背負うことの出来るお方は「主イエス・キリスト」だけです。

しかし、クリスチャンは、キリストの愛によって、支えられ、ある時は、キリストに背負われているのです。つまり「キリストの愛」によって生かされるのです。わたしたちが神様より愛されていることを知り、キリストが共にいてくださると知るとき、わたしたちも、キリストの愛に生きる者へと、少しずつ変えられていくのです。

本当に一人でも多くの方が、この「キリストの愛」に触れる機会があればと思います。「キリストの愛」に触れることによって、わたしたちは、少しずつ「キリストの愛」で満たされていくのです。

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