平和への道

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 20章15節

山口耕平によるメッセージ

先週は主イエスが平和への道が見えないエルサレムのために泣いておられたというみ言葉から聞きました。今週はご復活の日の朝に、泣いている婦人におかけになった主イエスのみ言葉から聞いてまいります。

『イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」』

その婦人の名はマグダラのマリアでした。マグダラとはガリラヤ湖の北西ぞいにあるまちの名前です。そのマグダラで生まれ育ったマリアは主イエスからいやしの御業を受けたあと、弟子のひとりとして従っていました。この朝、マリアは主イエスを丁重に葬るため、香油を塗ろうと墓を訪れたのでした。

ところが訪れた墓に主イエスのお姿はありません。マリアにとって、主イエスと歩んだ日々は平和そのものであったにちがいありません。自分をいやしてくださった主イエスが十字架にかけられ息を引き取られた。マリアにとっては、それだけでも大きなショックであったはずです。なのに、今度はその遺体さえ、どこかに取り去られてしまった。空になった墓を見てそう思ったのです。マリアは走って弟子たちのところに行って、そのことを知らせました。そして弟子たちが墓の中を確認し、帰った後もそこに留まっていました。マリアは、ただ墓の前で立って泣いていたことが記されています。

泣いているマリアに主イエスは『「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」』そう、言われました。なぜ泣いているのか。実のところ、マリアが泣いているのはわたし、すなわち自分自身のためでした。マリアはわたしの主イエスが取り去られた、と泣いているのです。そのマリアに主イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。」と声をかけられました。それはマリアがもう涙を流す必要がないことを示されるためです。

ではなぜそこに主イエスは「だれを捜しているのか。」そう、付け加えられたのでしょうか。それはこの時マリアが、遺体を通して地上での主イエスのお働きにしがみつこうとしていたからです。そしてマリアは、自らの力で強くあろうとしたのです。

主イエスを園丁と思い込み、『わたしが、あの方を引き取ります。』と言ったマリアの言葉からは、わたしが主イエスをどうにかしないと、というような強い意志が読み取れます。ですが、それはマリア自身を中心にした、少しずれてしまった意志であったのです。マリアが捜すべきあの方、主イエスは、マリアの力でどうにかできるお方ではありません。マリアのすぐそばで、弱いマリアのすぐそばで、生きて働いておられる。蘇られた主イエスはそのことを示されるべく、マリアに『だれを捜しているのか。』そう、声をかけられたのでした。

私たちは主イエスの十字架と復活によって本当の平和への道が見えるようになりました。主イエスこそ、私たちが捜し求めるべき平和への道、そのものです。そしてその主イエスが見えるようになるために必要なこと。それは力をつけることではありません。ただ、主イエスが私たちのためになされたことを受け入れて信じること。ただそれだけなのです。

あなたが今泣いているとしたら、それはなぜでしょうか。それがもし世の人々が主イエスのことを求めていない、捜していないことへの涙であるならば、それは大変に尊い涙です。ただ、あなたが主イエスのことを見つけられず、捜して泣いておられるのなら、どうぞ心配をしないでください。主イエスはそのようなあなたのこと思って泣いてくださっていたのです。そのことをどうぞ今、改めて思い起こしてください。

そして今朝、泣いているばかりの弱い私たちのところに、主イエスを捜している私たちのところに、主イエスは来て「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」そのように声をかけてくださいました。ですからどうぞその弱さをこそ誇ってください。主イエスは私たちの弱さを補ってあまりあるお方だからです。主の御前でなにも出来ないと嘆かないでください。主イエスはご自身だけが出来ることを充分に成し遂げてくださったからです。

主イエスのことを受け入れて信じたその瞬間から、私たちは平和への道を歩み始めています。ご復活の主に私たちの喜びも涙をも任せつつ、共に歩んでまいりましょう。

関連する番組