平和への道

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聖書の言葉

エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」

新約聖書 ルカによる福音書 19章41,42節

山口耕平によるメッセージ

西谷教会の山口耕平と申します。今日から始まる1週間のことを、教会では受難週と呼んでいます。受難週とは、主イエスの地上での最後の一週間、その歩みをおぼえる週のことです。今朝与えられたみ言葉には、主イエスが泣いておられたと記されています。

聖書ではこの直前に、主イエスが先頭になって歩まれてきたこと。そして共に歩んできた弟子たちのことが描かれています。そして弟子たちはいよいよ目指すエルサレムの都が見えてきたとき、喜んで神を賛美し始めました。それは、歩みの中で目にしてきた主イエスによるあらゆる奇跡のことを思い起こしたからでしょう。

歌われた賛美の歌も記されています。

『「主の名によって来られる方、王に

祝福があるように。

天には平和、

いと高きところには栄光。」』

この賛美の歌は、クリスマスのときに天使たちが歌い、羊飼いたちが聞いた賛美をほうふつとさせます。私たちもよく知っているあのクリスマスの喜び、そして神への賛美というものを、このとき弟子たちが喜び祝っていたのです。この賛美を妨げようとする人もいましたが、主イエスはその人を退けて、弟子たちを歌うままにされました。ですから主イエスはそのような弟子たちのことを喜ばれていたのでしょう。ただ、その弟子たちの喜びと賛美が地に響いているときに、一方で主イエスは泣いておられたのでした。

主イエスは誰のために泣いておられたのでしょうか。ここでは『その都のために泣いて』おられた、と記されています。その都の名はエルサレム、神の平和という意味が与えられた都です。神への賛美と共に、王たる神の御子が、神の平和という名前の都にお入りになる。そのときにいよいよ流された涙であったのです。

涙とともに声に出されて言われたこと。それは『「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。』というみ言葉でした。このみ言葉から、私たちは主イエスが泣いておられたのは、決して喜びからではなかったことがわかります。

神は平和を司るお方であり、また正しいお方です。では神の御子、主イエスは平和への道をわきまえない都を見て、その怒りから泣いておられたのでしょうか。どうもそうではないようです。それは、主イエスが続けてこう言われているからです。『しかし今は、それがお前には見えない。」』ここで主イエスが「お前には見えない。」と言われているのは、お前の目から今は、隠されている。だから見えないということです。つまり主イエスは、わきまえるべき平和への道が見えなくなってしまった。その裁かれるべき都のことを嘆き、また憐れんで泣いておられたのです。

今日、日曜日は神を礼拝する日です。その日曜日に私たちは共に朝の時間を取り分けて、神のみ言葉を聞こうと、こうしてラジオの前に集まりました。それは神の喜びの訪れである福音を聞きたいからです。聞く私たちと共に主イエスはおられて、私たちが主イエスから聞こうとする姿を心から喜んでおられます。

ただ主イエスのご受難のことをおぼえる今朝、私たちがみ言葉から見上げた主イエスは泣いておられます。私たちはこの主イエスのお姿を共に見て、その涙ながらの御声を聞いています。主イエスは涙ばかりか、血をも流されて、私たちの力では見ることの出来なかった平和への道を、聖書のみ言葉を通して見えるようにし、また聞けるようにしてくださいました。そのためにその御身を十字架にかけてくださったのです。

4月は新しいスタートを始めるときでもあります。今週の歩みをぜひ喜びと共に始めて頂きたいと思います。ただ、今、世の中に平和への道が見えない。そのように思わされ、喜べないことも多くあります。むしろ平和とは程遠い事柄を目にして、悲しみ、怒り、そしてあきらめすらおぼえることもあります。そのときに、私たちは今朝のみ言葉と共に見上げた主イエスのお姿、都を見て流された涙のことをおぼえたいのです。なぜならその涙はあきらめから流された涙ではなく、涙と共に種を蒔くお方の涙だからです。

涙と共に進まれた主イエスの歩みは、まことの平和へと向かう歩みです。私たちが今朝からそれぞれに歩み出そうとする道はどうでしょうか。主イエスの示される確かな平和への道であるためにも、歩み出す私たちはこの主イエスの涙のみ言葉を共におぼえたい。そのように願っています。

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