時の流れをどう受け止めるか

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聖書の言葉

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

旧約聖書 コヘレトの言葉 3章1節

金原堅二によるメッセージ

3月の後半になりました。春が訪れようとしています。毎年、春の近づくこの季節になると、時の流れを感じるものです。学生までの方は、それぞれ進学・進級します。就職などによって、生活の場が変わる方もいらっしゃるでしょう。引っ越しの多い季節でもあります。新しい環境を迎えるとき、多くの人は不安と期待の入り混じった複雑な感情を抱くものです。この春から始まる日常がどのような毎日になるのか、そういったことを思い巡らせている方が大勢いらっしゃるのではないか、と思います。

2年前の3月、私は兵庫県から滋賀県へ引っ越しをしました。その引っ越しの準備のために荷造りをしているときに、ふと昔の写真が収められたアルバムが目に入りました。忙しく日常を過ごしているときには見ることがほとんどありませんでしたが、昔の写真をパラパラとめくっているうちに、とても懐かしい気持ちになりました。

その中でも特に目に留まったのは、小学校低学年の頃の、当時のクラスメイトたちの写真が入ったものです。それはどちらかと言えばアルバムというよりも、「1年間の思い出文集」のようなものですが、ここにはもう20年も昔の日常を思い出させてくれるような写真が収められていました。「こんなものがまだ残っていたのか!」と思って、懐かしさと、今とは全く違う昔の日常に対する物寂しさを感じたことを覚えています。

時の流れは不思議なものです。私たちの人生には、色々な時があります。「あの時は良かったなぁ」と思えるような喜ばしい時もあれば、反対に「あの頃にはもう戻りたくない」と思うような好ましくない時もあります。いずれにしても、私たちがどのような時を過ごしていたとしても、時間は止まることなく淡々と流れていきます。私たちには過去の出来事を変えることはできませんし、未来に何が起こるかを正確に掴むこともできません。

今日は「コヘレトの言葉」という聖書の御言葉をお読みしました。この御言葉は、著者が真理の道を探究し、「ああでもない」「こうでもない」と思考を巡らせながら、私たちの人生の意味、その人生で起こる出来事の意味を探っていった言葉です。彼は、人の一生涯が「束の間」であることを特に覚えて、その弱さ、儚さ、むなしさを知った人でありました。私たちも人生を歩んでいて、時にはその弱さ、儚さ、むなしさを感じることがあるのではないかと思います。「何でこのようなことが起こるのだろう」と思うような苦しい出来事に見舞われることがあります。反対に良い出来事が起こったときに「この状態がずっと続けばよいのに」と願いながら、その通りにはならないもどかしさを感じることがあるかもしれません。そのような私たちにとって、著者コヘレトが語る言葉は、私たちに共感できるところがたくさんあって、不思議と惹きつけられるものです。

ここで重要なことは、彼がそのような束の間の人生をどのように受け止めているか、ということです。確かに、著者コヘレトは私たち人間の一生涯のはかなさ、むなしさを語っているのですが、しかし、彼はそこで私たちにとって生きる意味が「ない」と言っているのではありません。むしろ彼は「生きる」ことに強い関心をもっています。私たちの人生は、束の間に過ぎていく一瞬であるからこそ、逆説的でありますが「今をどう生きるか」が問われているのです。

そこで彼は言います。

「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。

彼は「すべてのことには定められた時がある」と言うわけですが、それは創造主なる神様が定める「時」のことを言い表しています。つまり、私たちの目に見えるあらゆる物質的なものだけでなく、私たちが過ごしている「時間」もまた、実は神様がお造りになった被造物であり、神様の御手の中にあると言っているのです。

彼が言うように、この世界のあらゆる物、そして時間でさえも神様が造られたものです。私たちは、神様がお造りになった時間の中で一生涯を歩んでいます。そのとき、私たちの人生に起こってくる出来事は、そう単純ではありません。笑う時もあれば、泣く時もあります。躍り上がる時もあれば、嘆く時もあります。愛する時もあれば、憎む時もあります。私たちの目の前に広がる景色は複雑です。単純に肯定的で前向きな言葉が「正解」などと言い切れるものではありません。私たちには好ましい時も好ましくない時もあって、その間を行ったり来たりしながら生きています。

これらの時について、著者コヘレトが知ったことは、「私たち人間が時を支配できるわけではなく、だからと言って偶然が世界を支配しているわけでもなく、実は神様が時を定め、この世界を支配しておられる」ということです。それは言い方を換えるなら、私たちは神様の「時」の中を生きていて、起こってくる出来事には神様が与える意味がある、ということです。

私たちの人生には色々な楽しいことが起こります。あるいは色々な苦しいこと、辛いことが起こります。それは、意味もなく起こったことではなくて、全ての時を定め、見通しておられる神様が、私たちにとって最も相応しい時に、最も相応しい仕方で、最も相応しいことをしておられるのです。

これからの毎日にどのような出来事が待っているのか。起こってくる出来事を全て見極めることは、今私たちにはできません。あるいは、過去に起こった出来事を追いかけて「この時代に戻ろう」ということもできません。けれども、神様は私たちを深く顧みて、これからの毎日に何らかの「時」を備えておられます。喜ばしいこともあれば、もしかしたら苦しいこともあるでしょう。私たちは、神様の「時」の意味を尋ね求めながら、与えられている今日1日、1週間、1ヶ月、毎日毎日を懸命に生きていきたいものです。神様は過去・現在・未来の全てを見通しておられます。全てを見通しておられる神様のご計画に身を委ねていくなら、そこに意味を与え、さらなる恵みを与えようとする神様の御心を見出します。そのように恵みを増し加えてくださる神様を信頼しましょう。

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