へりくだる人は高められる

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聖書の言葉

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

新約聖書 ルカによる福音書 14章11節

金原義信によるメッセージ

この言葉をイエス様が語られた場面は、ファリサイ派のある議員の家での食事の席でした。その食卓で、招待を受けた客たちが上席を選ぶ様子にイエス様が気付いて、たとえを話されました。

8~11節「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んで下さい』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

このイエス様のお話は、私たちの感覚では、よく分かることではないかと思うのです。人前では「出たがり」だと思われたくない。むしろつつしみ深く振舞う、ひかえめの態度を取る。これはわきまえていることではないでしょうか。

しかしもし私たちが末席に座ったとして、後から来た人たちが遠慮なく自分より上席に着き、宴会が終るまで誰も自分に声をかけなかったとしたら、どうでしょうか。やはり「失礼な」という気持ちが出て来るのではないでしょうか。つまり、外面が謙遜にふるまっていても、それが礼儀であり美徳だと思うからであって、心の中ではやはり自分は上座に勧められてもよいはずだし、自分の席次はあの人よりは上のはずだ、というふうなことをいつも考えているのではないか、と思うのです。低くふるまいながら、その心では、自分はもっと高いはず、という思いがある。謙遜においてこそ自分を高くする心があるのではないか。自分は謙遜をわきまえているという自負があるのではないでしょうか。

イエス様がここで問題になさっているのはそのようにしてでも自分を高くする心です。そして11節で言う「へりくだり」は、「自分はへりくだっている」という自負を持つ余裕はないし、そのような自負でさえ打ち砕かれた心です。

イエス様はここで婚宴という世俗の事柄を例に、神様の真理を教えようとしておられます。

神の国は婚宴のようなものです。その席にイエス様は私たちを招待しておられるのです。けれども自分はどれくらいの席次であるか、あの人より上のはず、という心では、神様の宴会の喜びが分からないのです。自分で自分を高くする者には、神様が招待して下さる恵みが見えてこないのです。

イエス様はここでファリサイ派のような人たち、自分たちは信心深く立派な信仰者である、だから天国に入り、上座に座るのは当然だと思っている人たちを見ておられます。その心には、自分が神様に自慢できるものを持っている、神様に通用する立派な人間だという自負があります。それは他の人を見下す心にもなります。それは人を愛する気持ちとは正反対のものです。

しかしそのような心に気がついたとき私たちは、「私は、本当は聖なる神様に自慢できるような立派なものではない」ということに気がつきます。自分が神様の祝宴の席に着くとしたら、それは自分が立派な、あるいは偉いからではなく、むしろ愛に乏しい私を、神様が愛して下さったからだ、ということに気がつきます。

そのとき私たちは、自分のためにイエス様が天の祝宴を用意して下さって、招いてくださる恵みを見るのです。神様の愛に包まれて、天の御国に入れていただけるなら、それは最も素晴らしい一番良い席なのです。そこでは上座を争う必要など何もないのです。神様が自分を高くしてくださり、天の祝宴の席で素晴らしいもてなしをして下さるからです。イエス様が私のために命を捨てるほど、私を愛して下さっているからです。この恵みに目を開かれ、満たされるとき、私たちは自分を飾ったり高く見せようとする心から自由になって、神様に支えられながら生きることが出来るのです。

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