聖なる者

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聖書の言葉

イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。 

旧約聖書 レビ記 19章2節

唐見敏徳によるメッセージ

聖書の中には、「聖なる者」あるいは「聖なる者たち」という表現が数多く使われています。新共同訳聖書では、旧約と新約をあわせた全66巻のうち、26の書物で見られ、トータルで130回登場します。新しい聖書協会共同訳では、数がさらに増えて、32の書物で見られ、トータルで152回登場します。

では「聖なる者」とは、いったいどういう人のことなのでしょうか。今日は、聖書が教える「聖なる者」についてお話します。

今日の聖書箇所を含むレビ記は、ヨハネの黙示録と並んで、もっとも「聖なる者」という表現が使用されている書物です。そして「聖なる者」について考えるとき、重要なヒントをわたしたちに与えてくれます。実際にレビ記でどのように「聖なる者」が使用されているのか、見てみましょう。最初にお読みした19章2節以外で、いくつか読んでみます。すべて新共同訳です。

11章44節「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。」

20章26節「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。」

これらが冒頭の19章2節と同じ構造になっているのに気づかれたでしょうか。

レビ記で「聖なる者」の使用頻度が高い理由のひとつは、基本的に一度に2回、ペアで使われているからです。そのペアとは、主なる神を表す表現としての「聖なる者」、そして主なる神から語りかけられている人間を表す表現としての「聖なる者」です。さらにいうと、このペアは非対称的です。主なる神の側に主導権があって、人間の側はそれに従うという構造になっています。すなわち、まず出発点として神の側が「聖なる者」であるということ、それゆえに神が語りかけてくださる人間の側も神の聖性をいただいて「聖なる者」になる、ということです。

ここに「聖なる者」について考えるうえで重要な点が示されています。それは「聖なる者」の本質は、人ではなく、神に属する事柄だということです。

身も蓋もない言い方になってしまいますが、人は己の力では、本当の意味での「聖なる者」になることはできないと聖書は語ります。レビ記にはさまざまな律法が記録されていて、「聖なる者」という言葉も律法を守ることの関連で使われています。それでも、信仰と生活に関する諸々の規定を順守すること自体が、その人を「聖なる者」とするわけではないのです。あくまで「聖なる者」である神が、「聖なる者」足りえない不完全な人間を「聖なる者」となるように望まれる。そしてただただ、そのことのゆえに人は「聖なる者」となる、ということなのです。

この「聖なる者」に関する主なる神と人との関係は、新約聖書ではより明確なかたちで表現されます。それは主イエス・キリストと主イエス・キリストを信じる信仰者との関係です。

新約聖書では「聖なる者」という表現は、基本的に主イエスと主イエスを信じる信仰者に対して使用されています。

主イエスについては、たとえば受胎告知の場面です。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)

主イエスを信じる信仰者に対しては、たとえば第一コリント1章2節、「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」実は、新約聖書に登場する「聖なる者」は、こちらの意味合い、信仰者に対する表現として使われているのがほとんどです。

ここである疑問が浮かんできます。それは、「聖なる者」と呼ばれている人たちが本当に「聖なる者」だったのか、ということです。

今お読みしたコリントの教会に関していえば、二つの手紙を通して、教会内の派閥争い、倫理的な乱れなどがありました。その意味では、コリントの教会の人々のことを素直に「聖なる者」とはいいにくい状況です。

では、「聖なるもの」とは単なるレトリックで、形だけの表現なのでしょうか。

もちろん、そうではありません。改めてレビ記の言葉に耳を傾けましょう。

「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(19章2節)

繰り返しになりますが、信仰者が彼自身の行いによって「聖なる者」になるわけではありません。主なる神、主イエス・キリストが「聖なる者」だから、聖なる神がそれを願っておられるから、信仰者は「聖なる者」となることができるのです。

人間はどこまでいっても、不完全な存在です。主イエスの信仰を告白し、洗礼を受けた信仰者であってもそうです。それでも、「聖なる者」であられる神が、不完全なわたしたちを「聖なる者」となるように望んでおられる。ここに聖なる神の大きな恵みが示されています。

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