今日という一日に感謝の花束を

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聖書の言葉

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章16-18節

國安光によるメッセージ

最近、長女から「パパなんて大嫌い」と言われることがあります。子どもが「こうしたい」「ああしたい」と言われると、親としてはしてあげたいけど、娘のことを思うと「それはできないよ」「ダメだよ」と言わなければならないことがあります。娘としては期待通りにならなければいやな気持になりますから、素直な気持ちをぶつけます。それもまた成長の一つだと思い、イライラしてはいかんと思いはしますが、ついこの間まであんなに「パパ好きだよ」と言ってくれた娘に言われると、じわじわダメージを受けます。そういう時は、前に読んだ本の中にあった「よくぞ生まれてきたという気持ちをもって」という言葉を思い起こします。ただ頭では重々わかっても、なかなか心がついていかないというのが実際のところです。

困ったな~と思うものの、娘の姿と自分の幼少期の姿が重なって見えてくるようなことがあります。娘に対して気になること、困ったな~と思うことは、案外自分にも似たようなところがあったりします。人のことは言えない面と、それでも言わなくちゃいけない面と、日々葛藤しながら、日々を乗り切っています。自分も幼かった頃、きっと親に同じようなことをしていたんだろうな~、両親には本当にお世話になったな~、自分が幼かった頃はあたり前だと思っていたけれども、実は見えないところに親の愛と忍耐がたくさんあったんだな~と気づかされます。

そんな私に、あるとき、友人が子育てについてのお話をしてくれまして、一つの詩を紹介してくれました。「今日」という詩であります。もともと英語のものを日本語訳した詩です。こんな詩です。

「今日、わたしは皿を洗わなかったベッドはぐちゃぐちゃ浸けといたおむつはだんだんくさくなってきたきのうこぼした食べかすが床の上からわたしを見ている窓ガラスは汚れすぎてアートみたい雨が降るまでこのままだと思う人に見られたらなんていわれるか・・(少しさきにいきますと)・・ほんといったい一日何をしていたのかなたいしたことはしなかったね、たぶん、それはほんとでもこう考えればいいんじゃない?今日一日、わたしは澄んだ目をした、髪のふわふわな、この子のためにすごく大切なことをしていたんだってそしてもし、そっちのほうがほんとなら、わたしはちゃーんとやったわけだ」

この詩を聴いて、なんだか心がほっとしました。現実を見たら、これもあれもできてない、ばっかり目につきます。でも視点を変えて、にもかかわらず「今日一日、この子のためにすごく大切なことをしていたんだって」思えたら、「わたしはちゃーんとやったわけだ」思えたら、心が楽になりましたし、感謝な気持ちが湧いてきました。私の好きな聖書の言葉の一つに「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」この中で、「どんなことにも感謝しなさい」これはなかなか難しいことだと、私自身は感じていました。でもふと視点を変えてみることができるなら、人の視点ではなく、神様の赦しと愛の視点に立つときに、「どんなことにも感謝する」私にとってより近いものに感じました。

娘から「パパ嫌い」と言われてへこむとき、自分でできてないな~と思うとき、視点を変え、赦しと愛の視点で、「今日一日、この子のためにすごく大切なことをしていんだって」と思うことができたら、今日一日が全然違って見えてきます。物事を几帳面に取り組もうとすることも大切なことです。今日もこれをした、あれをした、そうやって手ごたえを感じることは良いことでしょう。でもできてないことばっかりが目につき、それが自分を苦しめる原因になってしまったら、疲れてしまいます。視点を変えて、赦しと愛の中で、いること自体、今日生きれたこと自体に感謝をすることができたとするなら、ほっとすることができます。

これはもしかしたら、子育てだけではなく、いろんなことにあてはめて考えることができるのかもしれません。できる、できないだけで見ようとするなら、できないことばかりが目につき、疲れてしまいます。一生懸命にやったのに、うまくいかなくて、自分自身を責めることがあるかもしれません。人からこう見られているんじゃないか、そういう思いにとらわれて、心を重くする時もあるかもしれません。人生を振り返って、できなかったことばかりを数えていたら、心がしぼんでしまいます。人は完璧ではありませんので、失敗することは誰だってあります。

視点を変えて、「今日一日、この人、このことのためにすごく大切なことをしていたんだって。そしてもし、そっちのほうがほんとなら、わたしは、ぼくはちゃーんとやったわけだ。」こう思うことができたら、今日一日が、いや人生が全然違って見えてくるでしょう。神の赦しと愛が朝日とともに、目覚めとともに私たちに注がれています。今日という一日が、どんな一日だったとしても、神様の赦しと愛の中で、感謝の花束を贈ろうではありませんか。

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