てぶくろ

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聖書の言葉

「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」

新約聖書 マタイによる福音書 5章3節

國安光によるメッセージ

娘によく読む絵本の一冊に、『てぶくろ』という作品があります。エウゲーニ・ミハイロビッチ・ラチョフさんが書かれたウクライナ民話を題材とした絵本です。最初の場面は雪が降り積もる雪山に一つの片方のてぶくろが落ちている場面からはじまり、そこにねずみ、カエル、うさぎ、キツネ、おおかみ、いのしし、そして最後に熊がやってきてあたたかい手袋の中をお家がわりにして住みます。最後の場面では、てぶくろの中にいろんな動物がぎゅうぎゅうずめになっているんですけれども、「わたしも入れてくれ」と熊が願う、「とんでもない、まんいんです」「いや、どうしてもはいるよ」と熊がさらに願いますと、「しかたがない。でも、ほんのはじっこにしてくださいよ」といって受け入れられる。娘たちは「てぶくろ、やぶれちゃうよ~」と言いながら、ドキドキしながら想像力を掻き立てられていました。

動物たちがどうしててぶくろにやってきたのか、また入りたかったのか、理由を言いませんので、想像するしかありません。もしかしたら、何か困っていたのかもしれません。どこかで仲間とはぐれ、道に迷ってしまったのか、それもけんかをして出て来たのか、もしかしたらさびしくて、居場所を求めてやってきたのかもしれません。そうだとしても、普通に考えたら、ただでさえぎゅうぎゅうな手袋の中にイノシシや、さらには熊なんて入れるわけがないと考えるのではないかと思います。それでも入りたいと言われれば、まあいいでしょう、と広い心で受け入れる動物たちの姿は、厳しい寒さを乗り切る強さ、温かさを感じさせてくれます。

この本を読みながら、私はこの想像を超える広く、温かいてぶくろの家を思いながら、天の国を連想しました。天の国、これは神の国のこと、イエス様が私たちを罪から救ってくださる恵みのことです。てぶくろのもとに、「ぼくもいれて」「わたしもいれて」と、いろんな動物たちがやって来ます。こんなにたくさん入れるはずがない、2匹か、3匹でもう限界ではないか、ねずみや、うさぎは入れるけど、オオカミや熊は無理ではないか、こういう風に普通は考えるのではないかと思います。私たち人間はきっと天の国についてもそういう風に考えるのではないかと思います。他人についてあるいは自分自身について、これで入れるはずがない、そうやってふさわしくないと考えるのではないでしょうか。

しかし神の考えは、私たちの考えをはるかに超えています。イエス様は、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」とおっしゃいました。天の国に入れる人はどういう人か、これだけ立派なことをした人、あれだけの名声を得た人、とはおっしゃいませんでした。そうではなく、心の貧しい人、「神様の前に、自分自身を置いて考えたときに、ああ~だめだ、救いに価しない」そう感じる人、そしてだからこそ神様に救ってください、信頼して求める人、天の国はそういう人たちのものである。天の国には、どんな罪人であったとしても、そういうすべての人が入れるのだ、こうイエス様はおっしゃいます。ここに私たち人間の想像をはるかに超えた、神様の大いなる愛があらわされています。

イエス様は、私たちを天の国へと招くために、この地にお生まれになりました。そして生涯の終わりに、十字架におかかりになり、御自分の命をささげて、私たちの罪を背負ってくださいました。御自分の命をささげるほどに、私たちを愛し、救いを願っておられるイエス様は、御自分のもとに来るすべてのものを、あたたかなてぶくろに招くように天の国に入れてくださいます。イエス様は、この世界の中で、罪に埋もれていた私たち、愛が冷え、生きることがつらくなっていた、道に迷っていた、本物の居場所を求めていた、そういう私たちを迎え入れ、神の愛のぬくもりの中で生きるものとしてくださいます。

てぶくろのところにやってきて、「ぼくをいれて」「わたしを入れて」と近づいた、あの動物たちのように私たちもイエス様のもとに近づくことがゆるされています。自分は神の救いに価しないものです、どうかあなたがわたしを救ってください、そういう願いをもって、「わたしを入れてください」とイエス様に願い出たいと思います。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」神様があなたの今週一週間の歩みを、天のぬくもりで包んでくださいますように。

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