十字架がわたしの肩に

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聖書の言葉

人々はイエスを引いていく途中、田舎から出てきたシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。

新約聖書 ルカによる福音書 23章26節

吉岡契典によるメッセージ

この主イエス・キリストが十字架にかかる場面の大事な場面に、突然、それまで聖書に全く出てきたことのないキレネ人シモンという人が登場します。これはかなり唐突な登場です。キレネ人とは、今で言うエジプトの西隣りの国であるリビア人のことですが、聖書全体でも、あの長い旧約聖書、キレネという言葉は、一度も出てきません。そんな、聖書の地中海世界の大外に位置する、辺ぴな国の外国人が、さらに田舎から出てきたのだ、と訳されていますが、田舎という言葉は、道端という言葉です。ですので、本当にたまたま、道端を通りかかった外国人であり、主イエスの十字架と全く縁もゆかりもない、そういうシモンという人が、突然引っ張り込まれて、無理やり十字架を背負わされました。

しかも、シモンという名前には、サイコロを振るという意味が込められています。本当にそういう意味でも、サイコロを振るように次に何が出るか分からない。つまり前後の脈略や伏線などが一切ない。そういう人が、しかしこの聖書の一番大事な場面で、弟子たちでさえ、そこから逃げ去り、取り巻きの主イエスの家族たちでさえ、そばまで近づくことのできない、ローマ兵の死刑執行人だけが触れられる、主イエスがお架かりになる十字架に触れて、しかもそれを背負って、前を歩む主イエスの後ろ姿を追って、歩いていくのです。

全くの部外者。十字架を背負うに値しない、全くのミスキャスト。どこから来た誰なのかも定かならない、突然湧いて出てきたキレネ人シモンが、しかし無理やりに主イエスの十字架を背負わされて、主イエスのあとを歩ませられた。きっと当時この周囲にいた人々全員が、「ああ可哀想に、お気の毒に」「よりによってとんでもない罰ゲームが、何も分からないあの青年に降りかかった」と、思ったと思います。しかしながら、これはシモンに与えられた罰ゲームではなく、その逆の救いでした。

なぜなら、ローマの信徒への手紙という、使徒パウロが書いた代表作のような手紙がありますが、そこにはルフォスという、キレネ人シモンの息子の名前と、さらにシモンの妻の名前が、重要な人物として登場し、紹介されています。

つまり、恐らくこのキレネ人シモンは、ここで主イエスと出会って、この思わぬ出来事をきっかけに信仰者となって、その救いがエルサレムから、遠くの国、キレネの地まで及び、その救いが、シモンの家族全体に広がった。さらに、この後の歴史の中で、キレネには当時稀に見る程の有力なキリスト教会が誕生したことが分かっています。

ですから、形としてはキレネ人シモンが主イエスの十字架を担いだのですが、実はここで起こっていることは、縁もゆかりもないキレネ人シモンを、当時の世界地図の西の端から十字架の真下に呼び寄せ、主イエスの真後ろを、十字架を背負って付いて行くというという、他の誰も経験したことのないような深みにまで招き入れて、救いに入れてくださり、さらにその家族をも救い、さらにはそのキレネの国、町までをも救ってくださったという、これは、初めから終わりまで、シモンが主イエスをではなくて、実は、主イエスがシモンを、背負ってくださっていたという話なのです。十字架の救いは、距離を超え、国境を越え、人種を超えて、キレネ人シモンを深く捉え、彼を通して世界に拡がるのです。

そして、このシモンに起こったことは、サイコロを振るようにして、どこに住んでいる誰に対しても、起こり得ることです。もちろん主イエスは、サイコロを振るような行き当たりばったりによってではなく、私たちの思いと予想を超えた深い、熟慮された神の御計画によって、一人一人を十字架に触れさせ、十字架を背負わせてくださいます。つまり、あなたが今朝、この私たちが今、この御言葉を聞いたことは、決して偶然ではないということです。そして今この場所から、私たちの人生は、主イエスに出会うことによって、新しくされていくのです。

主イエスはマタイによる福音書で語ってくださいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

シモンにはこの時、自分が背負わされているこの十字架が何なのか、この主イエスの背中に付いていく先に何があるのか、まだ分からなかったと思います。けれども、磁石に吸い寄せられるようにして、彼は主イエスの背中だけを見て、その足跡を辿り、十字架を背負わされる。その時、不思議と内側から溢れ出る熱い力を与えられて、彼は、軽い軛としての十字架を、その重さを感じることなく背負い、十字架を背負うことでむしろ力強く歩まされたのです。

ゴールまですべてが見通せなくても、ともかく主イエスの十字架につながって、一歩一歩、一日一日、毎週、毎月、主イエスの背中とその足跡をたどっていく。そして、それでいいのではないかと思います。私たちの歩みも、今はっきりと全体像が見通せているわけではありません。しかしそこで毎週日曜日に主イエスに出会って、新しく十字架を背負わせていただきながら、一歩一歩、主イエスの背中についていく。その中で、力が与えられ、道が開かれてゆきます。

この十字架は、それはあっても無くても、背負っても背負わなくても良いものではなくて、これは私たちの生命維持装置であり、喘ぎながら生きる私たちが、生き延びるための呼吸器です。キレネ人シモンとは、今のこの私たちのことです。私たちも今、主イエス・キリストの十字架の前に、誰よりも近く招かれています。どうか、この十字架に触れてください。それがあなたを力づけ、救います。

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