スポーツの秋

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聖書の言葉

わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。

新約聖書 テモテへの手紙二 4章7節

吉田隆によるメッセージ

さて、秋といえば、スポーツの秋でもありますね。昔は10月10日が体育の日と決まっていましたが、今では「スポーツの日」と名前も変わり、日付も動くようになりました。10月10日は晴れになる確率が高い日と言われて、全国で運動会が開かれることが多かったのですが、今年はどうでしょう?最近では、運動会を春にやってしまう学校も多いので、秋とは限らないかもしれません。さて、運動会と聞いて、皆さんにはどんな思い出があるでしょうか。楽しかった思い出、嫌だった思い出、いろいろあると思います。あまり運動が得意ではない人には、苦痛以外の何物でもなかったでしょうね。けれども、逆に、日頃はあまりお勉強が得意でなくても、この日だけは輝いていた子もいましたね。私はと言うと、どうもあまり好きではありませんでした。運動は決して苦手ではなかったのですが、すごく緊張するタイプの子どもだったのです。かけっこをするにしても、まして何かの選手に選ばれたりすると、責任重大・失敗は許されないと、もう始まる前から心臓がドキドキして全然楽しむことなどできませんでした。

これには、苦い思い出があります。小学校の低学年、100メートルの徒競走で、ヨーイドンとともに飛び出した私は、先頭を争って走っていました。ところがゴールももう少しという時に、「タカシー!」という母親の声が耳に入ったのです。と、一瞬、その声の方をチラッと見てしまった途端に、私は転んで、結果はビリでした。そのことが悔しくて、家に帰ってから、私は母親を責めました。そして、もう二度と見に来てくれるな、と言ったのです。それからと言うもの、母は、運動会だけでなく、私が何かの試合に出たり何かの発表をしたり、とにかく緊張するような場所に私が出る時には、一度も見に来ませんでした。本当は見に来たかったでしょうに、あの時以来、一度も来なかったのです。今思えば、母には本当に申し訳ないことをしたと思っています。

私も子どもや孫の運動会や発表会を見に行くようになって、わかりました。親が見たいのは、単純にわが子の姿なのだと。わが子が一所懸命何かに取り組んでいる姿、わが子の成長ぶりを見たいのであって、その子が一等賞を取ろうがビリになろうが、そんなことは二の次、三の次だということです。

今日の聖書の言葉は、パウロという人の言葉です。キリスト教などクソ食らえと憎んでいたパウロは、しかし、不思議にもイエス・キリストを信じるようになって、さらには多くの人々にキリストを伝える伝道者になりました。町から町へ旅をしてはイエスの話をして、時には歓迎されましたが、時には命の危険にさらされるほどの迫害を受けて生きてきた人です。彼はやがて捕らえられて、牢屋に入れられ、最後には殉教の死を遂げたと伝えられています。そうして自分の人生の終わりが近づいたことを悟ったパウロが語った言葉、それが今日の言葉です。「わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」。

聖書では、私たちの人生、とりわけ神を信じて生きる信仰者の人生をレースに例えている所が何箇所かあります。果たして、それが短距離走なのか、マラソンのような長距離走なのかはわかりません。けれども、私たちは皆、自分のレースを走る競技者なのだと。そして、パウロは今、自分は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおしたと言うのです。この言葉に続いて、パウロはこう言います。「今や、義の栄冠を受けるばかりです」と。あのオリンピックの優勝者にかぶせられるオリーブの冠のように、神様からの救いの冠を受けるのだと、パウロは言うのです。私たちは、パウロのようなすばらしい信仰者ならそりゃそうだろうと、思うかもしれません。しかし、パウロはさらに、このようにも言います。神は「わたしだけでなく、主を待ち望む人、主イエス・キリストを慕い求める人には、だれにでもその冠を授けてくださいます」と。神を信じて、この世のレースを走り続ける者には誰にでも、神は冠を授けてくださる。皆に一等賞をくださると言うのです。そんなの競争ではないじゃないかと思うかもしれません。そうです。競争ではないのです。パウロが言ったとおり、私たちそれぞれは、自分に決められた道を走るからです。

私たちそれぞれの人生には、二つとして同じ道はありません。皆が、自分に決められた道を走る。そして、神は、そのように走る私たちを見ていてくださる。わが子が一所懸命に走る姿を毎日毎日、そして終わりの日に至るまで、影に日なたになって見ていてくださる。たというまく行かなくても、転んでしまっても、ずっと温かい眼差しで見ていてくださる。それが、私たちを救ってくださる神の姿なのですね。そうして、私たちが自分の道を走り終え、この地上の生涯を終える時、「よくやったね、よくがんばったね」と、神は私たち一人ひとりに冠をかぶせてくださる。そんなふうに人生のレースを走れることは、なんと幸いなことではないでしょうか。この秋、運動会に参加することはないかもしれません。けれども皆さんそれぞれの日々のレースが、神様によって見守られ、豊かに支えられますように願ってやみません。

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