まことの神

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聖書の言葉

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。

旧約聖書 詩編 121編1,2節

金昭貞によるメッセージ

そもそも人間は自然をみながら絶対的な存在、つまり、神を見出そうとします。とりわけ地震や津波などが起こると、人間を大きな危機に陥らせることのできる自然から神を見つけようとします。それゆえ、ある人は、太陽が神であると言い、また、ある人は、山が本当の神であると述べます。それだけでなく、この世に存在する思想や概念さえも、神になりうると語ります。では、いったい、何が、まことの神でしょうか。そこで、詩編121編の詩人は次のように語りました。

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ、わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」

この詩人も自然を仰ぎ見ていました。しかし、詩人は、自分の助けは、山々から来るのではなく、山々を造られた主から来ると告白します。他の人と同じく山々を仰ぎ見ましたが、詩人は山々をみながら、その裏におられる、天地を造られた神様を見つけました。

美術館に行かれたことがありますでしょうか。展示されている絵を見ながら、皆様は何を考えておられるのでしょうか。最初は、絵そのものを鑑賞するでしょう。その後は、画家の意図を推測すると思います。「画家がどんな思いでこの絵を描いたのか、この絵は何を見せようとしているのか」など画家の意図を見いだそうとするでしょう。このように、私たちは画家に直接会わなくても、絵を通して画家の存在を感じることができます。だれも、絵を見ながら、画家は存在しないとは言いません。なぜなら、絵があるということが、その絵を描いた画家の存在を証明してくれるからです。 神様も同じでしょう。神の存在を認めることができないというのは、絵をみながら絵を描いた画家の存在を認めることができないということと同じです。神様は、画家のようにこの世というキャンバスに、天と地を造り、そこにある、あらゆるものをお造りになりました。月も星も山も海も神様が造り、配置なさいました。ですから、絵を見ながら画家の存在を認識することができるのと同じように、私たちは山々を見ながら、山を造られた神様を認識することができるのです。

よく神様が本当におられるなら「直接、目の前に現れてほしい、それなら信じる」と言います。自分の目で確認できたら信じると言うのです。しかし、信仰とは、目に見えるものを信じることではなく、目に見えない神様を見上げることです。目には見えないけれども、この世の全てのものを造られた創造主の存在を見ること、それが信仰です。しかし残念ながら多くの人々が、自然を見ながら、それを造られた神様の存在を認識することが難しくなりました。自然は自らできている、あるいは、この世はビックバンによってなんとなく出来たと思っているでしょう。しかし、絵さえも画家がいなければ、存在することができないのに、絵よりもはるかに素晴らしい自然が、また、私たち人間という存在が、創り主なしに存在することができるのでしょうか。画家が絵を通して、自分の意図を表しているように、神様はご自分で造られた自然を通して、また、私たちを通して、神ご自身の栄光と力と権威を表しています。

そこで、詩編8編の詩人は、

「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう」と告白したのです。

今日は、目を上げて是非山々をご覧になってください。そして、山々を造られたお方の存在を感じてみてください。山々に助けを求めるのではなく、山々を造られたお方に助けを求めてみてください。まどろむことなく、眠ることもない、まことの神様が、必ずあなたに助けを与えてくださいます。どうか、「昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがないように、主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。 あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」

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