塩の効いた世界

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聖書の言葉

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。

新約聖書 マタイによる福音書 5章13節

國安光によるメッセージ

この季節、お店に行くと、「塩レモンキャンディー」「塩チョコ」など、「塩〇〇」と書いてある商品が並んでいます。塩分の摂りすぎには気をつけなければいけませんが、暑い日々の中で体を健康に保つために塩はなくてはなりません。

塩と言えば、思い出すのは主イエスのお言葉です。主イエスは、主イエスを信じ、生きる人に、あなた方は地の塩である、とおっしゃいました。塩は夏に体の健康を保つために必要です。あるいは塩がないと料理は美味しくありません。

あなたがたは地の塩であるというのは、この世界が無味乾燥なつまらない世界ではなく、塩味の効いた美味しい料理のように、喜びや愛のある美しい世界となる、そのためになくてはならない存在だ、ということです。

主イエスを信じる人の魂は、他の人にはわからない違いがあります。主イエスを信じる人は、神様に愛されている者として生かされています。愛されている人の魂は喜びで満たされ、平安を与えられます。魂が喜びと平安で満たされているなら、生き方に違いがあらわれてきます。

神様の愛に生かされる人は、人の目に左右されることから解放されています。存在そのものを愛しておられる神様のまなざしのもとに生きていますので、人の目を必要以上に恐れません。自由を与えられます。

また多くの人が、やがて人生は終わり、消えてしまう、そういう虚しさを抱えているかもしれません。私は神様に愛されている人は、この人生を生き抜いた時に、自分を愛してくださる神様の元に行くことができる、そういう希望を与えられています。

「あなたがたは地の塩である」そういう神の愛に生かされている人の歩みは、世にあって人々に良い影響を与える、人を恐れる怖さ、人生の虚しさを抱える人に、生きる喜びを、希望を差し出すことができるのだ、こう主イエスはおっしゃいます。

続けて主イエスはこうおっしゃいます。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」

塩気のない塩は、何の役にも立たず、捨てられる、恐ろしいこともイエス様はおっしゃいます。そう聞くと塩気のない塩のように、自分は人によい影響を与えられていないのではないか、そう不安になる方もおられるかもしれません。

でも14節から「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」こうイエス様はおっしゃいました。夜、散歩をすると、山の上の町の明かりが見えます。そういう山の上の町が隠れることができないように、世の光はかならずあらわれる、と言われます。

15節にも「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。」ろうそくに火をつけて、それを隠す人はいません。火をつけたら、暗闇の中であかりがともります。

主イエスは、こうおっしゃることで、地の塩だと言われているけれども、自分から塩らしさが出ていなかったらどうしよう、思われたとしても、あなた方を世の光としたからには、必ずそのことは起こる、神様の愛は必ずあらわれてくる、と約束されるのです。

それは何か人から拍手喝さいを浴びるような立派なことをする、ということではありません。一人一人、神様に愛され、生かされている、神様に貴いものとされている、そのことで魂を満たされるなら、それは必ず外にあらわれる。世界に影響を与えるということ。

その人自身は欠けの多い器かもしれません。輝くものがないかもしれない。でも欠けある器の内側に与えられている神様の愛は、光は、必ずあらわれるのです。そういう人は地の塩、世の光です。神様のまなざしの中で生きる幸いがここにあります。

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