キリストの香り

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 2章14,15節

李哲敏によるメッセージ

生物学的に動物や人間は五つの感覚、すなわち視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚を通して外界のいろいろな刺激を感じ、また把握します。ここに女性は生物学の領域を超えた第六の感覚、すなわちシックスセンスを持っていますね。

クリスチャンという言葉があります。イエス・キリストを神の子メシアとして信じ、彼の教えである聖書を学び、従う人のことを指す言葉で、今は全世界で同じ意味で用いられている言葉です。日本ではキリスト者とも言います。聖書の中には、クリスチャンに関する定義や説明が多くあります。今日の聖書箇所もその一つです。コリントの信徒への手紙は、パウロという人がコリントにある教会の人たちに書き送った手紙のことです。ここでパウロは、「わたしたちはキリストによって神にささげられる良い香り」だと言っています。

ほかの聖書の御言葉がそうであるように、この箇所の第一の受信者はコリント教会の会員たちですが、時間と場所という物理的次元にとどまらず、今この御言葉を読み、聞いているすべての人へのメッセージでもあります。ですので、今イエス・キリストを神の子メシアとして信じ、彼の教えである聖書を学び従う人は皆、キリスト者ですので、その人もキリストの良い香りです。

イエス・キリストを信じるか、信じないかを問わず、すべての人にはその人だけの香りがあると思います。これは汗のにおいのこととか、足のにおいなどの体臭のことではありません。その人の人柄と言いましょうか。その人の言葉、顔つき、行動、生活などを通して伝わってくる人格、品格などのことです。その香りがどんな香りをしているかは、自分で確認するのではなく、自分以外の他人によって確認することができるという特徴があります。自分のことをよく知っている人からの評価、評判、リアクションを通して、自分の香りがよい香りか、悪臭か、もしくは無臭かが分かります。皆さんからの香りはどんなものでしょうか?周りからの皆さんの香りに対する評価はどういうものでしょうか?

15節の前後の箇所によりますと、キリスト者から香るキリストの香りは、救いの道をたどる者、言い換えれば信仰者も、そして、滅びの道をたどる者すなわち、信仰のない人にも、分かります。もしこれを聞いておられるあなたがクリスチャンであるなら、あなたからはキリストの良い香りを出していますか?

腐ったにおい、きついにおいは人のきげんを損ねます。人を散らします。においの本体が嫌いになります。その反面、焼きたてのパンのにおい、おいしい料理のにおい、高価な香水は人を幸せにさせます。その香りは人を呼び集めます。その香りを放つ本体が好きになります。

基礎的な常識の一つは、「中にあるものが外にでる」ということです。逆に入ってないものは出ませんし、出せません。パウロがいう私たちが出すべき香りとは、私たち自身の香りではありません。私の香りではなく、キリストの香りです。私たちからキリストの香りを出すためには、この香りの源であられるイエス・キリストが私たちの中におられなければなりません。私たちの中にイエス・キリストの御言葉、神さまの愛、恵み、それに対する感謝と喜びがあるのなら、それらは私たちの言葉、顔つき、行いなどを通してキリストの香りとして外に出てきます。

小説家の三浦綾子さんは著書『旧約聖書入門』でこのように語りました。

「わたしは、昨日、台所で人参を切りながら思った。(人参はどこを切っても人参だなあ)と。が、自分の生活は、はたしてどこを切ってもクリスチャンであろうか。自分の生活のどの断面ででも、神をたたえ、神に従っているだろうか。」

彼女の言葉の通り、キリスト者は自分の生活のどの断面からでもキリストの香りを出すべきです。キリストの香りを出すためにまず、その原料であるイエス・キリストを入れましょう。聖書の御言葉を目・耳をはじめ、すべての感覚器官を通してこころの中に入れましょう。生活のどの断面からもイエス・キリストの良い香りを伝える人は、神の喜びです。

関連する番組