見ないのに信じる人は、幸い

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聖書の言葉

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 20章29節

宮武輝彦によるメッセージ

イエス・キリストが十字架の死から三日目に復活された、一週の始めの日、弟子の中、トマス一人だけ、イエスが弟子たちに現れたとき、その弟子たちと一緒にいませんでした。

「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、(その)トマスは」言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。

このトマスの言葉から、トマスは、「うたがい深い」人として、広く知られるようになります。しかし、トマスは、その性格において本当に「うたがい深い」人なのでしょうか。

聖書によれば、復活したイエスは、弟子たちに現れ、40日後に、イエスは、弟子たちの見ている前で、天に上げられます。そして、復活の日から50日目に、約束の聖霊が、エルサレムで祈りの心をあわせていた弟子たちと仲間たちにくだります。

この聖霊降臨の日に、弟子の一人、ペトロは、イエスのことをこのように、エルサレムにあつまっていた人々にこう言います。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、また、メシア[キリスト]となさったのです」(使徒言行録2章36節)

このように、弟子たちにとって、イエスの十字架の死は、当時の極刑として客観的に伝えられたのではなく、文字どおり、人殺しとして証言されるほどに、生々しいものです。決して、復活を前提にした単なる受難物語ではなく、神の裁きに対する深い畏れの中で証言された信仰の核心的な出来事した。

じつは、イエスから、直接、その不信仰を問われたのは、トマスだけではありませんでした。ちょうど、イエスが復活された日の夕方のことです。二人の弟子が、エルサレムから、エマオという村に向かって歩きながら、十字架の出来事を話し合っていました。このとき、イエスご自身が、ふたりにちかづいていっしょに歩きはじめした。ところが、二人の目はさえぎられて、いっしょに歩くイエスを認めることができません。

このとき、イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と、たずねます。すると、二人は、「くらい顔をして立ち止まった」のです。イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言いました。

「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」

「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体(イエスのからだ)を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

そこで、イエスは言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシア[キリスト]はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」

このように、トマス同様に、エマオへの道をイエスといっしょに歩いた二人の弟子たちも、イエスを認められず、聖書の言葉を信じて、イエスの復活を待つこともありませんでした。このように、トマスのうたがいは、その性格や弱さのためであったと言うよりは、だれでもあり得た態度であったと見ることもできるかもしれません。

いずれにしても、このとき、イエスご自身、一週間前と同じように、弟子たちがまた家の中におり、戸にはみな鍵がかけてありながら、その真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われたとき、トマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。

このイエスの言葉は、トマスの心にある傷や痛み、深い絶望感を想像するならば、それを覆って余りある、慰めといやしの言葉でした。だからこそ、トマスが、イエスを見て、「わたしの主、わたしの神よ」と、叫んだ思い、答えた思いは、十字架の死から復活された、イエスを、救いの約束を成し遂げられた、まことの神であり、このお方に従っていくと認める、まことの信仰告白でありました。

イエスはこのとき、トマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。それは、約束の聖霊は、聖書の証言する、十字架と復活のイエスを、キリストの言葉を聞く者たちの心に示してくださり、その心の目を開いて、「わたしの主、わたしの神」と告白させてくださることを教えています。

「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」るとき、十字架の死から復活されたイエスを信じる者たちは、キリストの苦難と栄光を証しする者に変えられます。今日、キリストの言葉を聞いて、信じる者は幸いです。

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