あなたがたに平和があるように

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聖書の言葉

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 20章21節

宮武輝彦によるメッセージ

今日の日曜日は、「キリストが死者の中から復活された」ことをとくに覚えて、世界中のキリスト教会において、イースター礼拝がささげられる復活節です。

わたしたちの男山教会では、近隣の奈良教会と共同墓地で、毎年イースター礼拝の後に、墓前礼拝を守っています。その墓碑には、「我らの国籍は天にあり」との聖書の言葉(口語訳聖書ピリピの人への手紙3章20節)が刻まれています。

新共同訳聖書では、フィリピの信徒への手紙3章20節に、「わたしたちの本国は天にあります」とあります。その後を読みますと、このように書いてあります。

「そこ(天)から主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」

このように、聖書が伝える「天」とは、十字架の死から三日目に復活され、天にあげられた「主イエス・キリストがおられるところ」のことです。そして、この天こそが、「わたしたちの本国」であり、わたしたちは、天に帰る日を待っていると言うことができます。

このように聞くと、キリスト教の死生観において、結局のところ、死ぬこととは、キリストがお迎えになる日を待つことであって、キリストの復活と昇天は、天に帰るための備えにすぎず、また、墓前にあつまって礼拝することも、キリストがお迎えになった人たちを偲ぶことにおいて成り立っている礼拝と思われるかもしれません。

けれども、「わたしたちの本国は天にあります」とは、ただ、天におられるキリストに望みをおいているということだけではないのです。フィリピの信徒への手紙を書いた、伝道者パウロは、コリントの信徒への手紙でこのように言いました。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」(コリントの信徒への手紙一15章19~22節)

この「死が一人の人によって来た」とは、神が土から造られた最初の人間、アダムによってすべての人が死ぬことになったこと意味します。アダムにおいて死がこの世に入り、すべての人が死ぬ者となったのです。しかし、「死者の復活」も、「一人の人」イエス・キリスト「によって来る」のです。この「復活」は、わたしたち自身の卑しい体が、終わりの日に朽ちないもの、栄光の体に変えられて復活する希望の約束です。

イエス・キリストが、十字架の死において墓に葬られて、三日目の朝に復活された日、それは、一週の始めの日、日曜日の朝でした。けれども、いわば、この最初のイースター礼拝は、弟子たちが待ち構えるように、復活の主をお迎えしてはじまったのではありませんでした。

ヨハネによる福音書によれば、弟子たちは、その日の朝、イエスのからだが、墓の中に見当たらないことを伝え聞き、それを弟子たちも確認しながら、まだ、本当にイエスは復活したのか、いったい、何が起こったのかわからないままに、恐れと疑いの気持ちを抱きながら、家の中にかぎをかけてみんなで閉じこもっていたのです。

それは、当時のユダヤ人たちが、墓からイエスのからだを盗み出して、イエスが予告したとおり復活したといいふらす口実にしようとするのではないか、あるいは、自分たちをつかまえにくるのではないか、という恐れを弟子たちは抱いていたからです。ここには、イエス自身が、あらかじめ、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と言われたことを、信じて待つ弟子の姿を認めることができないのです。

しかし、「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のです。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」のです。この「手とわき腹」には、三日前の金曜日に、十字架の上で打たれた釘の傷あとと、兵士にわきをやりで突かれた生々しい傷あとが残っていました。このとき、「弟子たちは、」本当に、イエスをまことの神、「主」と信じ、この「主を見て喜んだ」のです。

人間を土のちりから造り、命の息を吹き入れられた神が、そのひとり子をこの世につかわしてくださった。ここに神の愛があります。そして、この神のひとり子こそ、イエス・キリストです。ですから、イエス・キリストは、復活の日、まだ、その復活を信じられないままに、十字架の上で苦しまれたイエスの死とその姿を見て打ちのめされ、深い恐れを抱く弟子たちに、まず、「あなたがたに平和があるように」と、神との和解の言葉を告げて、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と約束し、命の息を吹き入れてくださったのです。

それは、十字架の死から復活されたキリストの命によって、弟子たちのみならず、罪に死んだ者たちが、死から命に生かされる新しい喜びに生かされた日、福音宣教のはじまり(先駆け)の日となりました。

この喜びの日こそ、「キリストが死から復活された」ことを祝う日、イースターです。そして、今も、これからも、キリストが再び来られる日まで、キリストがおられる天の本国に、すべての人びとが集められ、復活の希望を抱くこと、これこそが、キリストの救いの約束の実現です。この「主」のもとに来る人は、本当に幸いです。

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