良い木は良い実を結ぶ

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聖書の言葉

木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。

新約聖書 ルカによる福音書 6章44節

山下朋彦によるメッセージ

梅雨入りも間近です。ちょうどこの頃、青い梅の実が熟し、鈴鳴りになります。木には、それぞれに魅せ方があるようです。松や杉のように枝振りの美しさ・姿形の艶やかさで見せるもの、また金木犀のように香りで見せるもの、果樹のように実で見せるもの等様々です。聖書のお話しの舞台であるパレスチナでも温暖な地中海性気候のため、オレンジやいちじく・ぶどう、ざくろ等の樹木が見られます。以前イスラエル旅行をした折り、湿度10%の中、オレンジの瑞々しくほとばしり出る果汁と周囲の乾燥した大地との対比が印象的でした。どうしてこんな所に、こんなにも水分豊かな果物が成るのだろうか、とても不思議に思ったことがあります。

主イエス・キリストが、ここでおっしゃる「木は実によって知られる」というのは、当時の格言のようなものであったとのことです。それをお用いになって神様の真理をお語りになっておられます。特に良い木と悪い木(つまり食べられない毒性の木)とは、はっきり区別しなければなりません。今と違って市場で売っている物だけでなく、山や森で成る実も自由に取って食べたと考えられるからです。当然食用に適した身体にも良い実は重宝されたでしょうし、反対に悪い実は警戒し、用心されて避けられたり切り倒されたりしたことでしょう。良い木から成る良い実だけが人々の口に入れられ、生活を潤したに違いないと思います。主イエスは、はっきりと、こうおっしゃています。「悪い実を結ぶ良い木はなく、また良い実を結ぶ悪い木はない。木はそれぞれその結ぶ実によって分かる」からです。

確かに自然の理では、その通りですが、主イエスは、一体何をこの諺によって私たちにおっしゃっておられるのでしょうか。それが大事だと思うのです。ここで、「木」と「実」の関係というか、何をさすのかは、いろいろと考えられますが、大きく三つの理解があります。

一つは、「木」はその人なり、その人の教えなりを指し、「実」はその人の行いを指すというものです。そのひとの行い、働き、結果、成果を見れば自ずと良く分かるということです。例えば、その人が争いではなく平和をもたらすか、滅びではなく命をもたらすか、不遜や高ぶりではなく清さをもたらすかで、その人が「良い木」か「悪い木」であるかがわかるというのです。ただ言う

だけならば、いくらでも立派な事は言えても、それが行いを伴っているかいないかは、私たちでも判断出来るのですね。この理解には一理あると言えます。二つ目は、先と逆のようですが、その人の「言葉」によって分かるとするも

のです。イエス・キリストは、こうおっしゃておられます。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と。その人の言葉がその人の品格なり、気品を示すということです。よく不良の始まりは、言葉の乱れや服装の乱れからと言われますが、そうした受け止め方もあながち無視出来ません。

最後の三つ目は、「木」と言われているのは、「預言者(今日の牧師)」を指し、「実」は「信者」を指すとするものです。その預言者が真の預言者かそうでないかは、その信者のあり方による。もしその信者がイエス・キリストを証しせず、キリストの香りを放っていないならば、その預言者は偽預言者・偽牧師とみなされるということです。非常に厳しい見方です。しかしこれは逆も言えるのであって、その信者が本当の信者であるならば、その人は必ずキリストを証し、又キリストの香りを放たざるを得ないということです。いかがでしょうか。

いずれもそれぞれに一長一短があります。そのどれか一つだけをとって絶対化してしまうと逆に大変危険なものとなってしまいます。「行い」だけを見て果たしてその牧師やその人が正しいかどうかは判断出来ません。又「言葉」だけをもってしても見誤ってしまいます。あくまでも一つの尺度として、一つのバロメーターとして相対的に見ていく時に、それぞれは大変有効なものとされるのです。

いやもっと言うと、私たちは「行い」をもってしても、「言葉」をもってしても最終的な判断を下してはいけないのではないでしょうか。それは、神様に委ねていくことであって、誰が正しいか、そうでないかは、神様ご自身が判断され識別されることなのです。このことを私たちは、忘れてはなりません。

実は、主イエス・キリストがここでおっしゃる事は、何よりもイエス・キリストご自身にしっかりと結びつくことです。何故なら、主ご自身が「真の良い葡萄の木」であり、私たちは「その枝・その実」である必要があるからです。主イエス・キリストに信仰によってしっかりと結ばれる限り、その人は生き生きとし、豊かな良い実をつけることが出来るのです。良い木に、良い実を結ばせるのは、主イエス・キリストご自身の救いのみ業なのです。どうか、この放送を聞かれた皆さんが、わたしも良い木となりたい、良い実を結ばせたいと願っておられるならば、是非主イエス・キリストの下に来て下さり、真の救い主であり、神のみ子でいらっしゃるイエス・キリストを信じ、そのお方のみ後に従っていかれるようにお勧めします。神様の豊かな祝福と導きとを心からお祈りします。

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