真夜中の客

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聖書の言葉

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。[…]天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

新約聖書 ルカによる福音書 11章10,13節

赤石めぐみによるメッセージ

おととしの9月にこんなことがありました。私たちの教会は、夜はあまり訪問者がいないのですが、ピンポンが鳴りました。「どなたかな?」と思ってモニターを見ますが、誰もいません。へんです。1時間くらい経って、また鳴りました。モニターを見ますが、今度も誰もいません。ピンポンダッシュを疑って、外に出て周りを見回しましたが、誰もいません。子どものいたずらにしては時間が遅すぎます。次は、鳴ったと同時に表に出て押した人を探すのですが、本当に誰もいないのです。「おかしなことがあるね」と言いながら布団に入り、私たちは眠りにつきました。すると、夜中の2時すぎくらいにまた鳴るのです。さすがにドキドキしました。見に行ってもやっぱり誰もいません。「誰かいるの?イエスさまかなぁ・・・」そんなふうに思ってみるものの、ついにピンポンが鳴り続けて止まなくなりました。気味の悪いことです。夜中ですから、仕方がないので、機械をあけて線を一本はずすと、ピンポンは鳴り止みました。翌朝、電気屋さんに見てもらうと、前日、風も強く、雨が横殴りに降っていたので、外のインターホンの機械の中で結露したか、風が入って中のホコリか何かが悪さをして接触不良を起こして、あんなに鳴り続けた、ということでした。

教会に住まわせていただいていますので、いつ何時、どんな方がいらして、どんな事が起こるかわからない、という心づもりはしていますが、こういうことがあると、もう一度気を引き締め直すことになります。それでも、真夜中の訪問者となると、皆さんはどんなお気持ちになりますか。

イエスさまは、こんなたとえ話を話されました。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」

「面倒をかけないでくれ」。それが真夜中の訪問者に対する正直な気持ちでしょう。そもそも、友達にパンを貸してくれと頼みに行ったこの人も、旅行中の友達が、真夜中に立ち寄ってきたから、頼みに行かざるを得なくなったのでした。ですからそもそもの迷惑の発端は、真夜中にやってきたこの旅行中の友達です。これはたとえ話ですから考えてみていただきたいのですが、じゃあ、この「旅行中の友達」とは誰なのでしょうか。

イエスさまはまたこのようなことも話してくださいました。「主人が真夜中に帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。[…]あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」(12:38,39)

「人の子は思いがけないときに来る」。「人の子」とはイエスさまのことです。イエスさまは思いがけないときに来られるのです。真夜中に来られるのです。イエスさまやイエスさまを信じる者たちはこの世では「仮住まいの身」「旅行者」であると言います(Iペトロ2:11)。真夜中に来た「旅行中の友達」とはイエスさまのことなのです。イエスさまが訪ねてきてくれた!イエスさまには大きな恩がある。だからイエスさまをなんとかしてもてなしたいのだけれどもパンがない。それで友達のところに頼みに行ったのです。そして、出してくれるまでしつこく頼んだのです。

イエスさまは真夜中に来られます。あなたの人生の真夜中に、です。どん底に陥っていて、闇の中にいるあなたのところに、です。誰にも会いたくない、誰にも邪魔されずにゆっくり休みたい、とあなたが思っているようなときに、です。イエスさまはあなたの友達として立ち寄ってくださるのですが、そんな時に来られても、イエスさまをおもてなしすることはできないですね。いちばん疲れ切っているときです。力が残っていないときです。なにも持っていないときです。

でもここで教えられていることは、そんな力のないときに、自分のところにあなたの友達として来てくださったイエスさまを迎え入れること、そのイエスさまに何かもてなそう・こたえようとしてみること、そのために自分の持っているものが足りないなら、周りに助けを求めてみること、友となってくださるイエスさまにこたえたい一心で頼み込むならその人は聞いてくれるであろうこと、まして天の父なる神さまなら、イエスさまを友として迎え、なんとかもてなそう・こたえようとする人に「聖霊」を与えて、それができるように心も体もうんと力づけてくださる、ということです。

イエスさまは十字架にかけられる前の晩、真夜中にとらえられました。その夜、真夜中に捕らえられるまで、イエスさまは祈っておられました。最もつらい、最も耐え難い十字架への道を進むことができるように、力をください、とイエスさまは、父なる神さまにしつように頼む祈りを祈っておられました。衣服さえも引き裂かれて、なにも持たないで十字架に赴かれたイエスさま。私たちのために十字架にかかってくださった真実の友イエスさま。私たちはイエスさまにこの大きな恩があるのです。この友の恩・愛に応えることができるように、神さま、わたしにも力をください、とひたすら祈る者でありたい、と思います。「求めなさい。そうすれば与えられます。」

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