受難節を迎えて

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聖書の言葉

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章3~5節

國安光によるメッセージ

先週から、教会の暦では受難節を迎えました。別名、四旬節ともいわれるこの期間は、イエス・キリストが十字架に向かう歩みの中で味わった苦しみに思いを向ける期間です。イエス・キリストは、わたしたち罪人のために苦しみを引き受けてくださいました。イエス・キリストの苦しみを、祈りの中で、礼拝生活の中で、思い起こしたいと思います。

それともう一つ、私はこの時期に思い起こすことがあります。今週、3月11日を迎えます。東日本大震災があった日です。あれから10年以上が経ちます。いまも大きな痛みを抱えたまま、歩んでおられる方がおられます。またあの時から長きにわたって苦しみを抱える方々と共に歩む働きを続けておられる方々もおられます。

前にこんな知らせを聞きました。ある子は、かかわってから随分長い時間が経つけど、いまになってようやくあの日の記憶を話してくれた、と。自分がここにいるのは、その声を聞くため。これからも声なき声を抱える誰かのためにここにい続けたい、と。

人生で経験した苦しみは、ずっと心に残り続けます。別のことで気を紛らわせることはできても、忘れることはできません。しかし、それを誰にも言えなくても、わかろうとしてくれる、そばにい続けてくれる誰かの存在がいてくれるなら、その苦しみは少しでもやわらげられるはずです。そのような誰かの存在は、イエス・キリストの姿とどこか重なります。自分を捨てて、誰かを愛する。誰かの痛みに共感しながら、その痛みを自分の痛みを引き受けていく。主イエスは十字架へと歩まれ、苦しみを味わい、絶望の中にいた者に命を与えてくださった方です。

今日読んだみ言葉にはこうありました、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからです。」

この言葉は、福音を世界中に語り伝えたパウロという人が、教会に宛てて書いた手紙の中に記されている言葉です。パウロは、苦しみを経験している人々に、わたしたちは苦難をも誇りとする、と言いました。誇りとするというと、やや強すぎる言い方に聞こえるかもしれません。ドキッとします。しかし実際にパウロはそうだったのだと思います。なぜならパウロは、十字架のイエス・キリストから与えられる希望に生かされていたからです。

イエス・キリストから与えられた希望とは、イエス・キリストが担われた十字架から届いてくる神の愛です。パウロは苦しみを知るほど、十字架のキリストを近くに感じ、神様の愛に生かされていることを深く味わっていたのです。苦しみの中で、何かを失うことがあっても、十字架のイエス・キリストから注がれてくる神の愛に生かされている。神の愛から自分を引き離すことのできるものはない、という希望に生きていました。

パウロはその希望を見つめながら、どんなにひとりぼっちでさびしくても、苦しみの中でもがくことがあっても、不安で前が見えなかったとしても、そこに十字架のイエス・キリストはおられる。あなたの苦しみを知っていてくださるイエス・キリストが、いつもあなたの傍らにおられる、あなたに神の愛は注がれている、だから信じよう!苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む!希望はわたしたちを欺くことはないのだから!と語ったのです。

十字架のイエス・キリストにこそ、私たちの苦しみの中にある光があります。私たちは主イエスと共に、苦しみのトンネルを潜り抜けるのです。気合で乗り越える必要はありません。キリストが私たちと共に歩んでくださります。神の愛は一時も離れるときはありません。トンネルのその先には希望が約束されています。

いばらの冠をかぶった主イエスは私たちの苦難の傍らにおられます。どこか遠くにおられるのではない、人となってこの地に来られた主イエスはすぐ近くにおられます。この十字架で苦しみぬいてくださった主イエスによって、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む、このことを私たちは味わいながら日々を歩むことができる。あなたの明日、明後日がどのような日々になるかはわかりません。苦しみもあるかもしれません。いばらの冠をかぶった主イエスは、あなたと共におられます。大丈夫です。

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