夕べがあり、朝がある

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聖書の言葉

神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

旧約聖書 創世記 1章4,5節

宇野元によるメッセージ

ディートリヒ・ボンヘッファーの詩「よき力に守られて」。この詩は、彼の死ののちに曲がつけられ、よく歌われています。

ジークフリート・フィーツという人の作曲によるものがあります。これは教会で歌われるだけでなく、著名な歌い手がリサイタルでとりあげるなど、ドイツ語圏ではいろいろな場所で、ひろく用いられています。つよく心に響きます。

それにくらべて地味な曲によるものがあります。こちらは日本の賛美歌集、『讃美歌21』に収められています。静かな曲であるために、日本語の歌詞をよく味わうことができるかもしれません。

「よき力に守られて」のなかに、歌において繰り返されるまとまりがあります。

よき力に、驚くべき仕方で守られている

だから、安心して将来に思いを向けよう

神が傍らにおられます、夕べも、朝も

もちろん、どの新しい日にも

「神が傍らにおられます、夕べも、朝も。」

朝のまえに、夕べが語られています。暗がりのときも、神が傍らにおられます。夕べにおいても。

けさの聖書の言葉も、夕べがさきに語られています。夕べがあり、朝がある。心にとめるに値するでしょう。

夕べの暗がりから、朝の明るい光へ。

暗闇は、光にむかう。

暗闇は、光に変えられる。光が勝利する。

聖書の世界の見方は、まわりにある世界観と、おおきなコントラストをなしています。古代の世界観において、世界は神々が争いあう舞台であり、不安な世界であったといえるでしょう。たえず破壊する力に脅かされている。それが私たち人間のおかれている世界である、と考える。

現代の世界観も、不安な世界を映していると思います。戦争。経済とくらしの不確実さ。社会の矛盾。現代のグローバルなつながりのなかでの感染症の広がり。いま私たちは、どれほど不安な気持ちで生きていかなければならないかと思います。

聖書はそんな私たちの心にむけて、明確に語ります。

そうではない!と。私たち人間は、けっして冷たい場所におかれているのではない。神の言葉と、神の深い顧みのもとにあると。神の愛に囲まれていると。

聖書は世界のはじまりを記述するにあたって、闇についてきびしく抑えた筆致で記しています。

闇があります。しかし、闇は、世界の力ある作り手によって、つよく、きびしく限界が設けられています。

神の言葉によるみわざは、混沌とした状態に秩序をもたらす、それが示されています。形がつくられ、色がつくられてゆく。しかも、こまやかなニュアンスが与えられています。

水はふたつに分けられます。はじめの水は、とめどなくあふれ、流れるもののように思われます。そこに枠が設けられます。大空と海が作られる。そして海もすべてを覆うものになりません。陸が現れる。そして陸の上に私たちがおかれます。私たちの住まいとして。植物や動物とともに。色とりどりの、命があふれる世界のなかに。私たちをおびやかす力には、つよく制限が設けられて。

夕べがあり、朝がある。

闇は、光に進みます。

新約聖書にはこう語られています。

「光が世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ福音書 1, 9)。

さらに、「光は暗闇の中で輝いている」(同上1, 5))。

「既にまことの光が輝いている」(1ヨハネ2, 8)。

「あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」(ルカ福音書1, 79)。

このことが、イエス・キリストの到来においてもたらされる、いや、すでにもたらされていると。イエスの歩みによって、その苦難と、復活において実現していると。

ですから、ボンヘッファーはこの詩を書いたのでしょう。

神が傍らにおられます、夕べも、朝も

もちろん、どの新しい日にも

よき力に、誠実に、静かに囲まれ

守られ、思いにまさる仕方で支えられている

だから、この日々を、共に生きてゆこう

新しいこの年、私たちも共に生きてまいりたいものです。暗いときも、愛の力に守られています。それゆえに、確かな心で進むよう、招かれています。

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