詩編23編とともに

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聖書の言葉

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

旧約聖書 詩編 23編1節

宇野元によるメッセージ

新年のご挨拶を申し上げます。

2022年がスタートしました。新しい年は、どんな顔つきをしているでしょう。世界は大きな困難に見舞われています。いま世界は、私たちにどんな表情を見せているでしょう。はじまりました一年について、あなたはどんなふうに思いめぐらしておられるでしょう。

この年も、ご一緒に、聖書の言葉と共に歩んでまいりたいものです。そして、詩編第23篇とともに出発したいと思います。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。……

この言葉を自分の心に彫りつける。これをみずからの言葉とする。それは気安くできることではない、とてもそう語れない、と思います。

しかし、幸いなことです。そうするように招かれ、導かれています。そうすることができるようにされています。神の御子が与えられているからです。

主は羊飼い……。これは、クリスマスの恵みによって贈られている言葉です。救い主イエス・キリストの誕生のゆえに、だれもが受け取るように、いわば差し出されています。手をひろげて、しっかり握るようにと。この言葉を大切に握る人は、たどたどしくあっても自分の言葉を添えることができます。たとえば、こんなふうに語ることができるでしょう。

「いま、先がみえないところにあります。厚い雲がかかっています。つよい風が吹いています。これまでと違います。これまで土台とみなしていたものが揺れます。基準が揺れます。主義や、原則、それらが頼りにならないのを感じています。けれども、そのようなわたしを、見えない大きな手が導いてくれています。力づよく、いつくしみふかい手が。」

また、こんな風に。

「今、わたしは道の途中にあります。わたしは未完成の者です。欠けだらけの者です。それに加えて、暗がりの中を模索しながら歩んでいます。試行錯誤をつづけています。しかし、一歩、一歩、あなたのやさしい手に信頼させていただきながら。」

主は羊飼い……。それゆえに、つづけてこう語られています。「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」(3節)。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」(5節)。

自分ではどうにもならないことが、ふたつあるでしょう。

第一に、私たちはみずから迷い、道を踏み外してしまいます。複雑な世界のなかで、思いがもつれ、失敗します。誤りを犯します。

そのような私たちに、恵みふかい事実が示されています。私たちはよい羊飼いに守られ、導かれています。

私たちは誤りやすい。けれども、その私たちが、今を生きる者とされております。そしてベストを尽くして進むように。勇気をもって判断をおこなうように。愛と、思慮分別を働かせるように。そのところに、このことが約束されています。「主は御名にふさわしく、正しい道に導かれる」。誤りやすい私たちを。それにもかかわらず。

また、私たちにはどうにもならない、もうひとつのこと。「わたしを苦しめる者」を前にする。それを避けることは困難です。

なぜなら、導き手が目に見えないからです。「神様はどうしておられるのか」という問いが生まれます。「どうしてこんなことが」という問いが浮かびます。神様の静かなまことにたいして、疑いや批判がむかいます。

そのような問いや批判が私たちをとり囲みます。複雑な関係のなかで苦心している。けれども、思うように進まない。その私たちのありように。そのようなとき、私たちは弱く見えるでしょう。

「苦しめる者」は、ですから、私たちの心のなかにも現れるでしょう。それを避けることは困難です。

それにもかかわらず、忍耐を伴いながら、確かな心をもって歩むよう導かれます。

なぜなら、羊のことは、羊飼いのことだから。そして羊飼いのことは、羊飼いみずからが引き受けてくれているからです。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

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