ボンヘッファー最後の言葉

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聖書の言葉

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章25,26節

弓矢健児によるメッセージ

皆さんは、ディートリッヒ・ボンヘッファーという人をご存じでしょうか。彼は1906年に生まれたドイツ人の牧師・神学者です。しかし、ヒトラーの独裁政治に反対し、抵抗運動に加わったため逮捕され、1945年4月に39歳という若さで殉教の死を遂げました。

ボンヘッファーには何度も亡命するチャンスがありました。しかし彼は、ヒトラーの圧政と戦争の下で苦しんでいる人々を見捨てて、自分だけ安全な場所に逃げることはできませんでした。ヒトラーとナチスに反対する者たちへの弾圧が強まる中、ボンヘッファーは政府によって説教や講演をすること、本を書くことさえも禁じられました。しかし、それでも彼は、キリスト者として自分に今何ができるのか。迫害されているユダヤ人たちのために、苦しんでいる人々のために何をすることができるのか。そのことを真剣に考え、祈りました。そして彼が出した結論は、ヒトラーを倒す抵抗運動に参加するということだったのです。

当時、ドイツ国防軍情報部はヒトラーに対する抵抗運動の拠点になっていました。ボンヘッファーの義理の兄が、国防軍情報部付きの弁護士であったため、その関係で、ボンヘッファーも国防軍情報部の嘱託職員になります。こうして、彼は牧師でありながら、あえて抵抗運動に参加する道を決断し、その中に身を投じて行ったのです。けれども、ヒトラー打倒の計画が事前に漏れ、1943年4月、ボンヘッファーも逮捕されます。そして、二年間の獄中生活の後、ドイツ降伏のわずか一カ月前の1945年4月9日、彼はフロッセンビュルクの強制収容所で絞首刑にされました。

優秀な牧師であり、神学者であったボンヘッファーの早すぎる死は、人間的な目から見るならば、まさに悲劇としか言いようのない出来事です。彼はナチスの独裁政治の悲惨な被害者です。歴史に「もしも」、という言葉はありません。けれども、もしもボンヘッファーが死ぬことなく生き延びていたら、戦後のキリスト教会に、どれほど大きな貢献をすることができたであろうか・・・、そう言って、多くの人が彼の早すぎる死を惜しみました。

しかしボンヘッファーは、決して失意と絶望の中で命を奪われたのではありません。彼は絞首刑になる直前、友人にあてて次のような伝言をしました。

「私にとっては、これが最後です。しかし、また、始まりでもあります」

ボンヘッファーの最後の言葉は、深い信仰に裏打ちされた言葉です。しかし、彼が特別に強い人間であったから、このように言えたのでありません。彼自身も心の中に様々な怖れや不安があったと思います。しかし、それでも彼は、イエス・キリストにある新しい命を確信していました。ボンヘッファーは肉体の死ですべてが終わるのではない、ということを聖書から教えられていたのです。

ヨハネによる福音書11章25、26節でイエス・キリストはおっしゃいました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」

イエス・キリストにある命、それは永遠の命です。

わたしたちは誰もが一度は死にます。わたしたちの肉体は、いつかは朽ち果てます。しかし、イエス・キリストによって与えられる命は、決して朽ち果てることはありません。むしろ、そこから新しい命が始まるのです。だからこそ主イエスは、「わたしを信じる者は死んでも生きる」、とおっしゃったのです。

また、主イエスは、ヨハネによる福音書6章47節でも、「はっきり言っておく、信じる者は永遠の命を得ている」、とおっしゃいました。

わたしたちは命を直接目で見ることはできません。しかし、わたしたちは誰もが神から命を与えられています。主イエス・キリストは、その命を新しくし、わたしたちに新しい始まりを与えてくださるのです。

ボンヘッファーは、この主イエスの言葉を心から信じていました。たとえ、ヒトラーによって、体を殺されても、自分の命はそれで終わってしまうのではない、ということを知っていました。だからこそ彼は、ヒトラーの暴力が支配する、暗黒の時代の中にあっても、最後まで勇気と希望を失わずに生きることができたのです。

「私にとっては、これが最後です。しかし、また、始まりでもあります」

ボンヘッファーの最後の言葉は、そのことを、わたしたちに証しています。

時代は違っても、正義と真実が踏みにじられている現実が今もあります。わたしたちの人生も、嬉しいこと、楽しいことばかりではありません。悲しいこと、辛いことも多くあります。しかし、喜ばしい経験だけでなく、どんなに辛い経験であっても、また悲しい経験であっても、この地上でのすべての経験が、わたしたちの新しい命の糧となるのです。主イエス・キリストの愛を信じ、永遠の命の希望の中を生きる時、わたしたちの日々の歩みが、わたしたちが今日経験するすべてのことが、将来の新しい始まりの備えとなるのです。

ボンヘッファーが新しい始まりを信じ、最後まで信仰と良心に従って歩んだように、わたしたちもまた、新しい始まりを信じ、今日という日を精一杯、誠実に生きる者でありたいと願います。

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