聖書の言葉
打ち破る者が、彼らに先立って上ると、他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる。
旧約聖書 ミカ書 2章13節
宇野元によるメッセージ
薔薇について、リルケが記した言葉――
どこにあるのか
この内部にふさわしい外部は?
どんな痛みにそのような亜麻布は当てられるのか?
「薔薇」の花といっても、じつにさまざま。これは重ねの多い、深さのある薔薇でしょう。薄い花びらがいくつも折り重なる複雑な内部を見つめて、問いかけます。このような内部を、隙間なく、ふさわしく覆うものがあるとしたら、それはどんな形をしているだろう?このような内部に見合う外部があるとしたら、それはどんなだろう?
ふと、立体感のある、奥行きのある、透明な、えもいわれぬ空間が立ち現れるようです。
内部と外部。内と外の世界が、もし見える形になったら?二つのものが一つになったら?
聖書はそれについて語ります。
「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、高いところにあるものも、低いところにいるものも」(ローマの信徒への手紙 8, 38)。
「天にあるものも、地にあるものも、見えるものも、見えないものも」(コロサイの信徒への手紙 1, 16)。
いわゆる「森羅万象」についてそう語られています。私たちの目に、天使は見えません。天にあるものは見えません。見えないものと、今見えるものが、ひと括りに語られていますね。立体感と、奥行きのある、私たちの想像をこえる空間が現れるようです。現在のものと共に、未来のものも含まれています。深い、豊かな、時間も場所もこえる世界が示されています。
天にあるものは見えません。また、地上にあるものについても、私たちはよく見ているかといえば、決してそうではありませんね。私たちは、ものの外側を見ます。内側を見ることはできません。いろいろなものを見ているようで、実は、見ているものは、限られています。思えば、不思議なことです。私たちは自分の命を目で見ることができません。
また、私たちのもとで、内側と外側のあいだに、矛盾や対立が起こります。誰もが経験しておりますね。
思っていることと、口にすることがあべこべになってしまう。心と言葉が一つにならない。思いと行動がちぐはぐになる。聖書は、そんな私たちに語っています。そのようなことから解放される。思いだけということがなくなる。また、外側だけの演技、形だけの振る舞いがなくなる。心が形になる。行動が、思いの現れになる。内と外が一つになる。心と言葉のすれ違い、思いと行動の対立や、矛盾が取り去られる。
言いかえれば、見えないものが、見えるものになる。見えない真実が見える現実と一致する。真実は、しばしば見えません。内側に隠れています。『星の王子さま』に登場する、賢いきつねが教えてくれますね。「大切なものは見えない。」
はんたいに、真実ならぬものが幅をきかせます。逆さまなもの。偽りのものが、はびこります。そこで、見えない真実との取り違えが起こります。そして目に見えない真実が、わきに追いやられてしまう。
しかし、聖書は語ってくれます。見える世界は、見えない方によって作られたと。そして治められていると。神様が、見えない天から、私たちの世界を治めておられると。
ご一緒におぼえたいと思います。内と外が矛盾なくひとつ。このことを知るために、イエス・キリストがあたえられています。私たちには如何ともしがたいことを、イエスが打ち破ってくれているからです。
私たちには見えない大切なものを、イエスのうちに知ることができます。
神は、愛の存在。それをイエスが証しています。
それゆえに、対立が幅をきかせる現実のなかで、ゆるしを信じることができるようにされています。
そして、ちぐはぐなありかたのなかで覆い隠される、正しい人間的なありかた、それをイエスが見えるものにしてくれています。
困難な現実のなかで、押しつぶされないように。
愛と希望をもって生きるように。イエスが先駆けています。私たちが続くように。