永遠の宝

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聖書の言葉

わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 4章7節

宇野元によるメッセージ

私たちは四方八方から苦しめられても行き詰らない。途方に暮れても失望しない。聖書は、私たちを招いています……たとえ倒れることがあっても滅ぼされない。そう、共に言うことができると。「わたしとおなじようにあることができます。いいえ、おなじように支えられます」。そう語ってくれています。

なぜなら、私たちは宝を与えられているのだから。

聖書のイメージはゆたかで、美しいものです。この宝は、単色ではなく、色とりどりの輝きを放つものでしょう。黄金や、ダイヤモンド、それにエメラルドの緑や、ルビーの赤い輝きを思い浮かべることができます。そのような宝が「土の器」に与えられていると語られています。美しい宝と対照的な器のなかに!

こちらは、古い水瓶のようなものを想像したらよいでしょう。つやのない、乾いた器。茶色というより、灰色に近い色合いの器。そんな見栄えのしない器の中に、宝が存在する。この宝は、どのように知られるのでしょう。宝の輝きが漏れ出ることによって知られるでしょう。土の器じしんが、それらしく見えるからではなく。土の器は、土の器らしいでしょう。どこかしら、整わないところがあるでしょう。デコボコしたところがあるでしょう。そして、おそらくひびがあるでしょう。あちこちに傷ができているでしょう。しかし、そこから、美しい光が放たれる。

「私たちは、このような宝を土の器に納めています。」私たちは土の器。このイメージは、神と、私たち人間の関係を表しています。ふたつの箇所を紹介しましょう。

一つは、旧約聖書のイザヤ書からです。第45章。

「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか。『何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない』などと」 (45, 9)。

もう一つ。新約聖書のローマの信徒への手紙第9章にこうあります。

「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか」(9, 20)。

私たちはもろく、不完全な土の器に等しい。さらに、たとえ捨てられたとしても、造った者に文句は言えなかったと語られております。作り手には、そうする権利があるはずです。陶芸家が、作品を厳しく選ぶように。けれども、こうつづけられています。

「しかし神が、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐みの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう」(9, 22. 23)。

この土の器は、神の怒りの器でありえた。ところが、憐みの器とされている。「土の器」というときに、この意味が受けとめられています。ですから、この器に与えられている宝は、「並はずれて偉大な力」であると言われています。そう言えるのは、イエス・キリストの苦難と勝利を知っているからです。思えば、イエスこそ、土の器である私たちのために十字架を引き受け、大きな傷を負い、倒れた。しかし、み力により、神の並はずれて偉大な力により、復活された。

もういちど、この宝に注目しましょう。この器のなかから放射する光は、ゆるしと命の光です。

土の器は、傷のある器でしょう。からだの痛みや、心の痛みを体験しています。しかも、みずからを損ないうる。この意味でも、傷をもつものでしょう。けれども、そんな私たちに宝が伴います。私たちが孤独なときも、落胆するときも。悲しいときも。宝の輝きは、失われません。ああ、自分は土の器にすぎない、そう思い知るとき、この宝が、それにもかかわらず輝いています。

二重の力が。ゆるしと命の力が。

たちあがることができるように。まえに進むことができるように。

未来にむかって、今を生きられるように。

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