まことのディアコニアのために

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聖書の言葉

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。

新約聖書 マタイによる福音書 20章28節

金昭貞によるメッセージ

ギリシャ語に 「διακονία(ディアコニア)」 という言葉があります。これは、仕えるという意味ですが、本来は、「給仕をする」、「食卓に仕える」ということから由来しています。奴隷が全く自分の意志を殺して、ただ、ひたすら主人のために奉仕をするということからできた言葉です。では、今から、ディアコニアを実践しようとした、聖書の人物を紹介したいと思います。

彼女の名前は、マルタです。主イエスのことが大好きだったマルタは、主イエスを自分の家に招待しました。主イエスを愛するがゆえに、出来るだけいい食事を出そうとしたのでしょうか。マルタはせわしく食事の準備をしました。まさに主イエスに仕えるためのディアコニアを行っていたのです。ところが、彼女の兄弟であるマリアは、食事の準備で忙しいマルタを全然手伝おうとしませんでした。マリアは主イエスの足元に座って、御言葉を聞いているばかりです。そこで、マルタは、主イエスに、「主よ、わたしの姉妹は、わたしだけに、もてなしをさせていますが、何とも、お思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と文句を言い出します。主イエスのためディアコニアを実践しているのに、姉妹であるマリアが全然手伝おうとしないので、マルタが怒るのは当然なことだったでしょう。

しかし、主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と語られました。主イエスは、マリアが良い方を選んだので、それを取り上げてはならないとおっしゃっいました。では、マリアが選んだ、「良い方」とは、どういうことでしょうか。。。それは、主イエスのディアコニアです。今朝の御言葉は、人の子、主イエスは、仕えられるためではなく、仕えるために、この世に来られたと語りました。すなわち、主イエスは、ディアコニアを受けるためではなく、ディアコニアを行うため、この世に来られたのです。

では、主イエスはどのようにディアコニアを行われたのでしょうか。まず、「御言葉を語られることによって」です。冒頭で、ディアコニアの本来の意味は、「給仕をする」、「食卓に仕える」ことであると申し上げましたが、主イエスは、御言葉を語る、御言葉による食卓に仕えることによって、私たちに霊の糧を与えられました。それを、マリアがいただいたわけです。しかし、マルタは自分のディアコニアに夢中になってしまい、主イエスのディアコニア、すなわち、御言葉をいただくことが出来ませんでした。

また、2000年前に、この世に来られた主イエスは、ご自身を私たちに与えてくださることによって、まことのディアコニアを行われました。神の子が、人間になられ、進んで、奴隷よりも徹底的に低くなられ、十字架の上で死なれました。それは、まことの「ディアコニア」のためでした。主イエスは、ご自身の体と血を私たちに分け与えてくださることによって、多くの人の身代金として自分の命を献げることによって、まことのディアコニアを実行なさったのです。

最後になりましたが、私たちに必要なことはただ一つだけです。それは、仕えるためにこの世に来られた主イエス・キリストの「ディアコニア」を受け入れることです。多くの人々が、自分の基準で、自分なりのディアコニアに励みます。仕事、家族、人間関係など、自分のディアコニアに夢中になっています。これは、決して悪いことではありません。しかし、これらのことを超えて、私たちにおいて究極的に必要なことはただ一つだけであると主イエスは語られます。それは、主イエスのディアコニアを受け取ることです。どうか、主イエスの御言葉とその救いの御業を受け入れることによって、まことの命をいただけますように心から祈り願います。

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