殺してはならない

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聖書の言葉

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

あなたはいかなる像も造ってはならない。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

安息日を心にとめ、これを聖別せよ。

あなたの父母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

隣人に関して偽証してはならない。

隣人の家を欲してはならない。

旧約聖書 出エジプト記 20章3~17節

袴田清子によるメッセージ

出エジプト記20章に記されている十戒の御言葉です。

今日は8月15日、第二次世界大戦に日本が負けた日です。近隣の国々を侵略し、国を奪い、人権を奪い、住まいや家族を目茶苦茶にし、多くの人の命を奪った戦争がやっと終わった日です。日本人として生まれた私達は、この日を、自分の国が行った恐ろしい罪を懺悔し、悔い改め、二度と同じ過ちを犯さないように、心に刻む日として、覚えなくてはならないのだと思います。

戦争は、神様の前に大きな罪です。聖書は、はっきりと「殺してはならない」と命じています。しかし、私達の国は、この戒めを破り、多くの尊い命を、虫けらのように扱い、奪ったのです。

最近では、「なぜ殺してはならないのか」説明が必要になる時代となりました。聖書はその問に対して明確な答えを持っています。創世記2章27節でこのように記されています。「神は、ご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」人間は、神様にかたどって、神に似せて造られています。ですから、殺人は、神様がこの世で最も貴重な、最も聖なるものとしてお造りになった者を破壊することになるのです。命は神様が与えられたものです。そのため、神様は「殺してはならない」と言われているのです。

創世記9章6節は、このように記しています。「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」神様にとって、掛替えのない被造物である人間の命を奪う殺人は、神様の前における恐ろしい罪です。そしてそれが、戦争ともなると、合法的に、組織的に、長きに亘って、国を挙げて殺人がなされるのです。その破壊力は、計り知れません。

神様は、人間を神様との交わりの内に、神様と共に歩む者、神様に倣って働く者、神様と永遠に生きる者として、造られました。その交わりは、神様との交わりなので、永遠の命と繋がっています。神様が人間をご自身にかたどって造られたので、神様にとって人間の命も人格も命も尊いのです。

「殺してはならない」という戒めは、ウェストミンスター小教理問答書では、積極的命題と消極的命題で説明されています。積極的命題は「わたしたち自身の命と他の人々の命を守るための、あらゆる合法的な努力を求めている」です。そして、消極的命題は、「わたしたち自身の命や隣人の命を不当に奪うこと、あるいは、それに向かうすべてのことを禁じている」です。

ウェストミンスター小教理問答を更に詳しく説明している、大教理問答書は、「命を守るための」積極的命題を、次のように説明しています。「自分自身および、他の人達の生命を守るために、あらゆる角度から周到な検討を重ね、合法的な努力を惜しみなく傾けること。」そして、「誰の生命であれ、それを不当に奪うこととなる、あらゆる思いと企てに抵抗し、そのような感情を残らず抑制し、そのような機会と誘惑と行動をことごとく避けること」。それだけではなく、このようなことまでもが「命を守る」積極的なことになるというのです。「耐え忍ぶこと、心の平静さ、気分の晴れやかさ、思いやりの心、愛、同情心、柔和、優しさ、親切、穏やかで温かく、礼儀正しい言葉使いや振る舞い、心の広さ、進んで人と和らぐこと、不当な仕打ちを忍んで耐え、赦すこと、悪に報いるのに善をもってすること、悩んでいる者を慰め、助け、罪のない者を守り、弁護すること」などです。

ウェストミンスター大教理問答書が消極的命題として、「殺してはならない」という戒めで禁じていることは、次の通りです。「生命を守るにあたっての合法的で不可欠な手段を無視したり、放棄したりすること、罪をはらんだ怒り、憎しみ、ねたみ、復讐心、度を越した情念、心を取り乱した思い煩い、過度な飲食や労働や娯楽、怒りをあおる言葉、口論、殴打、傷害、その他、誰の生命であれ、それを滅ぼすことになる全てのこと」と書かれています。

そして、イエス・キリストは、私達の心が「殺してはならない」という戒めを破っていると言われました。すなわち、「自分の兄弟に腹を立てる者は、裁きを受ける。兄弟に向かって『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と語っておられるのです。いじめ、ヘイトスピーチ、SNSでのバッシングも「殺してはならない」を破っているということです。

聖書は「罪が支払う報酬は死です。」とはっきりと記しています。「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

かつて、神学校の同級生で、韓国から宣教師になるために来ていた友達がいました。彼女は、「そこにいるだけで良い」という神様の導きを受けて、神学校に来ていました。かつて韓国に対して日本がしたことを考えると、彼女の存在は、神様の赦しの印としか、私には考えられませんでした。

神様の賜物は、主イエス・キリストによる永遠の命なのです。あなたも、貴方を造られた神様が、あなたのために与えてくださった、イエス・キリストによる罪の赦しと和解を受け取り、この永遠の命に預かることができるように、心からお祈り致します。

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