梅雨明けまだかな?①

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聖書の言葉

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

新約聖書 ヨハネによる福音書 3章14,15節

吉田隆によるメッセージ

今年は梅雨入りが早かったですね。5月の中旬頃だったでしょうか。さすがに5月の梅雨入りでは、雨が降るとひんやりしました。それで「梅雨冷え」ですねぇと挨拶代わりに言っていたのですが、「つゆびえ」と口にした途端、そう言えば、昨年の今頃は「アマビエ」というのが流行っていたなあと思い出したのです。あの何だか得体の知れない鳥のような魚のような妖怪です。

この放送はキリスト教の放送ですから、妖怪の話などどうでもいいかもしれないのですが、日本中が国を挙げて、またまた商売と結び付けてお菓子やら飲み物やら、果てはこいのぼりや飛行機に至るまで、猫も杓子も「アマビエ」。さらには、厚生労働省までもが、コロナ対策の広告に「アマビエ」を使っているのですから、どうでもよくはないですよね。ただ、あまりカワイイというキャラではなかったからでしょうか。それともあまり効果がなかったからでしょうか。流行語にはなりましたが、今年はもうほとんど言われなくなってしまいましたね。

さて、そもそもこの「アマビエ」とは何だったのでしょうか。ネットで調べてみますと、江戸時代の末期、今の熊本県は肥後の国の海に、この「アマビエ」という妖怪が出てきて、「これから6年の間豊作が続くが、同時に疫病が流行するから人々に私の絵を見せよ」と言って消えていったそうなのです。そのように書いてある古文書が残っていて、そしてそこに描かれていた「アマビエ」の絵が、昨年あちらこちらで使われていた絵そのものでありまして、現在は京都大学の図書館に保存されているとのことでした。まあ、似たようなお話は日本でも世界でも各地にあるのですが、少なくとも、この熊本版オリジナルの「アマビエ」の文書を注意深く読んでみて驚きました。「疫病が流行するから私の絵を見せなさい」とは書いてありますが、そうすれば疫病が収まるとも疫病にかかっても治るとも書いてはいないのですね。ですから、「アマビエ」の効果などないではないかと文句を言う人がいても、それはそうでしょう。元々そう書いていないのですから、ということになってしまいます。それにしても、こんな妖怪ごときにすがらなければならない人間の姿は、ある意味滑稽です。しかし、人間の力ではどうにもならない災いに直面した時に、藁にもすがる思いになるのは誰しも同じではないでしょうか。

聖書、とりわけ旧約聖書の中では、疫病は、しばしば神から人間に与えられる警告や人間の罪や傲慢さに対する罰として描かれています。ですから、人間は、その災いが終わるのをひたすら耐えて待つしかない。あるいは、本当に自分たちの罪を悔い改めて、神が災いを鎮めてくださるよう願うかしかありませんでした。実際、疫病というものは、人間が密集する都会や人の行き来という経済活動が盛んな場所で拡散するものですよね。ですから、人間が自分たちの生活のあり方を反省する機会としなければならないというのは、あながち間違ってはいないように思います。

その旧約聖書の民数記という書物に、せっかく奴隷労働の苦しみから神に助けていただいて、たくさんの恵みをいただいたにもかかわらず、神に逆らった人々がその罰で次々に疫病ならぬ蛇にかまれて死んでしまうというお話があります。その時、神様は、指導者のモーセに「青銅でできた蛇を竿の先に掲げなさい。たとい蛇にかまれても、その蛇を見上げれば命を得る」とおっしゃったので、モーセがそのようにすると、人々は助かったというのです。このお話では、ただ「人々に見せなさい、治るかどうかは知らないよ」ではなく、はっきりと「それを見上げれば、命を得る」と約束され、そのとおり助かったのです。

やがて、この物語を元に、新約聖書で、イエス・キリストが言われた言葉が、今日の言葉です。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。「人の子」とは、イエス御自身のことです。イエスが「上げられる」とは、十字架の上に上げられることです。ちょうどかつて蛇にかまれた人たちが神の救いを仰ぎ見て助かったように、私たち人間は、この神の救い主であるイエス・キリストの十字架を仰ぎ見て救われる。ただ蛇から、あるいは疫病から助かるというのではない。この方を仰ぎ見て信じる者は皆、一人の例外もなく「永遠の命を得る」というのです。

人間は、生きていれば、病気にもなります。誰もがやがては死を迎えます。実際、神から罰を受けてもしかたのない存在かもしれません。しかし、十字架を見上げて信じる者は永遠の命を得るとは、何と大きな救いでしょうか。そして、このイエス・キリストの救いの十字架は、今もこの世界に立っているのです。立ち続けています。皆さんの町にある教会の十字架は、まさにそのしるしです。

梅雨もまもなく明けるでしょう。けれども、長く苦しい涙の日々を過ごさなければならない人が、おられるに違いありません。十字架を見上げましょう。そこにこそ、私たちを愛して止まない神の救いが、永遠の命を与える希望のしるしが、確かにあるからです。

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