主の鍛錬

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聖書の言葉

ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」

旧約聖書 創世記 29章25~27節

吉田謙によるメッセージ

ヤコブはイサクとリベカの間に生まれた双子の弟で、兄はエサウでした。双子とは言え、エサウが長男、ヤコブは次男でした。ところがヤコブは、本来、兄エサウが受けとるはずの祝福を、父イサクを騙し、奪い取ってしまったのです。そのために彼は、兄エサウに命を狙われるようになり、母の故郷に亡命せざるを得なくなりました。そして、しばらく伯父のラバンのもとで働くことになったのです。ヤコブは、この時、ある女性と運命的な出会いを果たします。それは、伯父のラバンの娘、ラケルとの出会いでした。ヤコブは、七年間、伯父ラバンのもとで働けば、愛するラケルと結婚させてもらえるという約束を取り付け、七年間、伯父のラバンのもとで、一生懸命働きました。ところがヤコブは、実に巧妙かつ周到な伯父ラバンの計画に、まんまと引っ掛かってしまい、愛しているラケルと結婚するために、更に七年間、ラバンのもとで働かざるを得なくなってしまったのです。

この屈辱的な経験を通して、ヤコブは何を教えられたのでしょうか。ラバンにだまされ、憤りながらも、しかし彼の心の中には、苦々しい思い出が去来していたのではないかと思います。つまり、これらはヤコブにとっては、どれもこれも思い当たる節のある経験、伯父ラバンの中にかつての自分自身の姿を見るような経験だったのです。ラケルの代わりに姉のレアが差し出されるというラバンの策略を経験することによって、かつてヤコブ自身が兄の振りをして盲目の父をだまし、兄の祝福を横取りした時のことを思い起こしていたのではないかと思います。また七年間の労働の代わりにラケルを得るという取引きは、かつて空腹の兄エサウから一杯の煮物の代わりに長子の権利を得るという取引を彷彿とさせます。どれもこれも、かつての自分の罪の歴史を思い起こさせるものばかりです。これらのことを通して、ヤコブは、否が応でも自分自身の過去と向き合わざるを得なくなっていきました。そして、それらの経験を通して、ヤコブは今まで自分が蒔いてきた種を、このラバンの家での十四年間の労働を通して、刈り取っていくことに、少しずつ気づかされていったのです。

主なる神様は、私たちに徹底的な悔い改めを求められます。自分の過去と向き合うことによって、その罪の赦しの恵みの大きさを改めて知り、さらに打ち砕かれ、練りきよめられて行くのです。ヤコブにとって、これらはとてもつらい経験だったに違いありません。けれども、ヤコブは、どうしてもこれらの経験を通り抜けなければならなかったのです。ヤコブは、被害者になって初めて、騙された兄のエサウがどれほど屈辱的な思いをし、腹立たしい思いをしたのかを、つくづく思い知らされたのではないかと思います。「あの時は、自分のことしか考えていなかった。本当に申し訳ないことをした!」ヤコブは、この経験を通して、心底、悔い改め、大きく成長していったのです。このようなラバンの策略をも用いて、ヤコブを深く深く、そして徹底的に訓練される神様の御業を覚える時に、私たちの人生の経験が、どれひとつ取ってみても、決して無駄ではないことを知らされます。主なる神様の赦しは完全なのです。けれども、過去の罪の経験が、救われた後にも、心の傷として、しばしばうずくことがあります。それは、決して私たちの救いの確かさを揺さぶるものではありません。また私たちを不安に陥れるものでもありません。しかし、私たちの過去の罪を、私たちが本当に許された者として克服し、前に進んでいくためには、この地上において、そのことの刈り取りの経験をさせられていくことが、時として必要なことがあるのです。

新約聖書のヘブライ人への手紙12章には、こういう御言葉があります。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

神様は、時として私たちに、厳しい試練をお与えになります。それは多くの場合、どうしてこんな目に遭わなければならないのか、神様の祝福はいったいどこにあるのか、と思わざるを得ないような厳しい現実です。けれども、その厳しい現実は、多くの場合、本当は神様からの試練、鍛錬なのです。神様は、そのことを通して、私たちを鍛え、導き、成長させて下さいます。つまり試練の背後には、私たちのことを大切に思って下さる神様の愛、神様の御心があるのです。

今、目の前にある現実がどんなに暗く、絶望的であったとしても、私たちはそこから結論を引き出す必要はありません。いや、そこから自分勝手に神様のことを思い描いてはならない。主なる神様は、御子を十字架に犠牲にするほどまでに、私たちのことを愛し抜いておられます。その神様が、みすみす私たちを滅びるままにしておかれるはずがありません。必ずや、その苦難をも用いて、私たちを鍛え、練り上げ、大きく大きく成長させて下さるはずです。そのことを信じ、決して力を落とすことなく、それぞれの困難な現実に、希望をもって立ち向かっていきたいと思います。

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