イースターの希望②

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聖書の言葉

続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

新約聖書 ヨハネによる福音書 20章6,7節

吉岡契典によるメッセージ

今朝もイースターの話の続きをしたいと思います。先週、死は終わりではなく、主イエス・キリストは墓から復活したと語りました。しかしそれは、本当でしょうか?本当に主イエス・キリストは、葬られたところから復活したのでしょうか?それはどこで分かるのでしょうか?

今朝の聖書の御言葉には、主イエスが復活されたことを物語る、一つの物的証拠が置かれています。それは亜麻布です。ヨハネによる福音書は、とても読者の目につくようなかたちで、19章の後半から、4回も、「亜麻布」という言葉を書き込んでいます。

亜麻布とは、いわゆるリネンといわれる、柔らかく通気性がある布です。その亜麻布を、ここでは、主イエスの弟子ペトロと、もう一人の弟子の二人が見たと書かれています。その書き方はとても丁寧です。まず、ペトロよりも速く走って先に墓に着いた他の弟子が、亜麻布を見ました。

次にペトロが墓に着きます。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。さらにそのあと、先に着いた弟子が、ペトロの後に付いて墓の中に入って来て、見て、信じた。二人は、主イエスの墓に入って、あるはずの遺体の代わりに亜麻布を見たのだ、という描写が、丁寧に、とても臨場感豊かに繰り返し描かれています。

聖書は、主イエスの遺体が墓の中からなくなるという場面で、そこに残された亜麻布にスポットライトを当てることで、何を言わんとしているのでしょうか?

ペトロが墓の中で確認したところによると、頭を包んでいた覆いは、亜麻布とは離れたところに丸めてあった、とあります。「丸めてあった」という言葉が気になるところですが、実はそういう言葉は本文にはなく、むしろ、頭の覆いは、その所定のあるべき場所に置かれていた。そういう言葉で書かれています。ここからはっきりすることは、墓の中は整然と整えられていたということです。墓の中が荒らされた形跡は見られず、主イエスの頭を包んでいた覆いと、体に巻かれていた亜麻布は、互いに荒々しく剥ぎ取られて、ぐちゃぐちゃっと一箇所に山積みされていたり、いろんなところに散乱していたというわけではなかった。もし墓泥棒がそこに入ったということであるならば、主イエスの遺体を包んでいた頭の覆いと亜麻布を、わざわざ遺体から剥ぎ取る必要はないと思います。そんなことをしたらかえって運びにくいですし、泥棒には、そんなことに手間をかける時間的余裕がないはずです。しかし、この御言葉の中に何度も出てくる「亜麻布が置いてある」という言葉も、先程の頭の覆いと同じく、それが畳まれて平たく置いてあるという言葉ですので、頭の覆いと、亜麻布は、まるで主イエスの遺体が起きあがって、着ていたパジャマを丁寧に脱いで、それを枕元に畳んで置いておくようにして、そこに整然と置かれていた、ということなのです。

墓泥棒だ、という叫びに促されて主イエスの墓まで来た二人の弟子でしたが、現場に足を踏み入れた二人は亜麻布を見て、ここに泥棒が入ったのではないということ悟りました。遺体が盗まれたとか、何か外部からの力が遺体に加えられたということとはちょっと違う。主イエスの遺体自体に何かの変化が起こって、遺体持ち逃げされたというよりも、主イエス御自身が起き上がって、そこから居なくなられたという雰囲気を、二人は共通して認識するのです。死んだはずの主イエスなのに、あれっ?まだ終わっていない。その先にある、別の新しいことが起こっている。イースターの日曜日の朝の、日の出と共に、二人はその新しい兆しを感じ取りました。

「それから、この弟子たちは家に帰っていった」という言葉がそのあとに書かれていますが、彼らはどんな気持ちで帰って行ったのだろうかと思います。

三日前、主イエスが十字架に架かられたとき、ペトロはそこで弟子の一人として相応しく従うことができずに、挫折しました。そして主イエスが十字架に架けられて息を引き取られ時も、そのあとの墓に葬られる時にも、ペトロはその場面に一切顔を出していません。恐らく怖くてどこかに逃げ隠れていたのです。そんな中で過ごした三日間でした。主イエスを失った悲しみと、自分の勇気のなさを呪いながら、彼は悲しみと後悔と怒りで、眠れない夜を過ごしたのだと思います。

けれどもペトロは、イースターの朝に亜麻布を見ました。そこには主イエスの息遣いが見えました。死で終わるのではない、遺体が持ち去られたのとも違う、全く新しい始まりがそこに予感された。ペトロたち二人は、ただ諦めて、うなだれて、家に帰って行ったのではなかったのだと思います。死が命によって突き破られる。そういう、まだかつて誰も考えたことも経験したこともなかったことを。復活の証拠を目にした彼らは、過去の主イエスではなく、今、死から復活して、どこかで生きておられる主イエスのことを考えながら、家路に着いたのだと思います。

イースターの出来事は、失敗し、挫折し、遅れを取ったような人々の只中で起こりました。神様は、喪失や、諦め、恐れ、そして死を、最終的なエンディングにはなさいません。もうさすがに手遅れだろう、だめだろうと思って、駆け込んでくる者に対しても、たとえその足取りが遅くて遅れても、けれどもしっかりとした希望を、夜明けを、示してくださる。まだ終わりではない。死で終わるのではない。それを彼らに伝えるためです。私たちは結局最後に、死ぬのではなく、生きるのです。

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