イースターの希望①

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。

新約聖書 ヨハネによる福音書 19章41節

吉岡契典によるメッセージ

イースター、おめでとうございます。このコロナウィルス禍でも私たちが今朝、神様を見上げることができる理由は、今日がイースターだから。私たちにはイースターがあるからです。

新型コロナウィルスは、恐ろしい病です。なぜならその背後には、死がついてまわっているからです。私の教会では、近年、多くの方々を天国に見送っていて、納骨をするために教会の共同墓地によく行きます。そんな時にはふと、いつか自分も、この共同墓地に入ることになるかもしれないなと思います。それを思うと、たくさんの遺骨が積み重なっている、あの湿った墓穴の奥は、どうなっているのだろうとか、墓に自分が入ったとして、そこから見る景色は、どんな風なんだろうとか、あらぬことを色々考えてしまうのですが、しかしそこで、湿っぽい、お墓の様子だけでなく、特に今朝私たちは、もうひとつ、とても大切なことを、合わせて考えなければなりません。

併せて考えるべきその大切なこととは、私たちの墓には、その墓の内側には、主イエス・キリストも、一緒に居てくださるということです。多くの信仰の先輩たちが名前を連ねているその共同墓地の墓碑には、とても大きな字で力強く、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』と彫り刻まれています。死んでゆく死人が、死者が、幸いだと言われています。主に結ばれて墓に入るならば、その人は幸せであると。

お読みさせていただいた聖書の言葉には、主イエスが墓に葬られる場面が語られています。死んだら墓に入るということは、何ら特別なことではなく、ごく当たり前のことですから、別段こうやって、貴重な聖書の頁をその埋葬のために割く必要はないのではと思ってしまいますけれども、しかし聖書は、主イエスの葬りの次第を詳しく書き記しています。それは、この主イエスの葬りの次第が、いずれ墓に入って、死人となる私たちにとって大切なことだからであり、この主イエスの埋葬の出来事は、まるで、この私たちのようでもある、二人の人の人生を変えたからです。

その二人とは、アリマタヤ出身のヨセフと、ニコデモという二人の男性です。この二人は、いずれもお金持ちの政治家であったようです。そして彼らにはもう一つの共通点がありました。それは、彼らが神様よりも人の目や、人からの評判を恐れていた二人であった、ということです。

しかしそんな二人が、「ユダヤ人を恐れて、自分たちの居る家の戸に鍵をかけて」閉じ籠もっていた弟子たちを尻目に、総督ピラトに直訴して、主イエスの遺体を十字架から取り降ろし、そしてニコデモは、遺体に少し塗れば十分であろう高価な香料を、百リトラ(3.2kg)も持って来たのです。そして二人は、恐らくヨセフが自分のために用意していたと思われる新しい墓に、主イエスの遺体を担ぎ入れました。

ここでこの二人は、全く以前までの二人ではなくなっています。何が二人を変えたのでしょうか?二人が共通して目にしたもの、それは、十字架に付けられた主イエスの死です。

もしかしたら彼らは、ヨハネ福音書が、十字架上での主イエスの最後の言葉として記している「成し遂げられた」という言葉を聞いたのかもしれません。主イエスは、自ら、自分の死を死んだというのではなかった。その死によって新しい何かを引き起こし、何か別の新しいものを成し遂げるために、死んだ。そして彼らは、「成し遂げられた」という言葉と共に遂げられた主イエスの死を、自分に向けられた死だと悟ったのです。

私たちが変われるとしたら、どこにその突破口があるのかというと、この主イエスの十字架の死に、それはあるのだと思います。十字架を見るときに、そこには、この私のために命を捨てて、この私に結び付いてくださるために、神様に捨てられてくださった主イエスがいらっしゃいますので、そして今朝の御言葉では、墓の中に葬られるまでしてくださった主イエスがいらっしゃいますので、もうそのことが分かったら、私たちはもうそこから、今までのままではいられません。

主イエスの葬られた墓のことを、聖書は、「そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。」と語っています。そこに葬られた主イエスは、その三日後、日曜日の朝に復活されます。そして主イエスの復活によって、この新しい墓は、同時に新しい意味を持つ、記念碑的な墓になりました。この墓は、地獄への入り口なのではなく、新しく天国への道を開き、その入り口となる、名実共に、新しい墓になったのです。

今の危機は長期化するでしょう。もっと近くに死が迫ってくることもあり得ます。しかし、たとえ私が小さな骨になって、誰かの手によって墓の中に埋葬される時にも、私は一人ぼっちになって、神様からも遠く離れた地下に潜るのかというと、そうではない。葬られることを、墓の中の空気を吸うことを、主イエス・キリストもまた経験されました。主イエス・キリストは、そこにも届いて来てくださいます。

このイースターの出来事の中に、私たちが、これまでとは違うように生きる根拠が、恐れなく生きて、そして恐れなく死ぬことができるための根拠があります。死も、墓も、それは孤独ではなく、別れでもなく、終わりでもありません。それは通過点に過ぎず、それは天国への大きな最後の門に過ぎない。神様と私たちの絆は、死よりも強いのです。私たちの墓は、既に主イエス・キリストによって新しくされました。この私たちの人生は、死をもって幕を下ろすどころか、神様との固い絆に生きる第二の人生の幕が、むしろそこから開くのです。『今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである』。

関連する番組