窓を超ゆ

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聖書の言葉

その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

新約聖書 マタイによる福音書 18章27節

宇野元によるメッセージ

年上の親しい友人が、手紙に添えて送ってくれた言葉を紹介しましょう。大正と昭和の詩人、竹友藻風が紡ぎだしたものです。

最初の言葉を読ませていただきます。お聞きになれば、お分りになりますが、季節は5月から6月ごろの詩、薔薇の花が咲く時期のものと思います。

風に乗る わが心

はつ夏の 窓を越ゆ(「風に乗る」第一行)

19世紀アメリカの詩人、エミリー・ディキンソンは、ニュー・イングランドの小さな町アマーストで生まれ、その地で亡くなりました。ごく限られた領域の中で生涯を送った人です。詩人としても、生前はまったく世に知られることがありませんでした。しかし、小さな世界の中でしたためられた彼女の言葉は、大きく翼を伸ばし、風に乗って、なんと自由に羽ばたくことでしょう。

こんな詩があります。

喜びとは出かけること

内陸に住む心が海へ

家々を過ぎて————岬を過ぎて————

深い永遠の中へ————(‘Exultation is the going’)

なぜ、それができる?内陸の、冬が長くて厳しいアマーストの町にあって。また私たちの2月、薔薇の季節はまだ遠いと思うおりに。そして今、コロナ禍の中にあって。なぜ?聖書が教えてくれます。救いの御子イエス・キリストが私たちを連れ出してくれるからであると。なぜ、イエス・キリストが私たちを連れ出してくれる?イエスにおいて、神が私たちの思いや私たちのあり方をひっくりかえしてくれるから。

きょうの聖書の言葉は、神の国のたとえ話からお読みしました。神の国、すなわち神様のなさり方が、たとえに託して教えられています。家来は借金をしていた。一万タラントン。今で言えば、数10億とも、それ以上とも考えられます。とても大きな金額。持ち主の身になってみれば、ゆるすことはありえないことでしょう。まして帳消しにするなど考えられないでしょう。私たちの考え方からすれば。たとえの王様は、金額を数えず、ゆるす。ゆるされる側からすれば、それは信じられないようなこと、信じられないような幸いなことでしょう。

借金を数える。そんなふうに「数える」心があります。自分が持っているものを数え、人を裁く。それがまた自分をも「数えられる」者にします。負い目を数える。自分が自分を責める者になります。私たちは暗い狭い部屋に閉じ込められてしまう。イエスは、そこから連れ出してくれる。私たちには信じられないと思える。それにもかかわらず。なぜなら、私たちは外の光に向けて創られている、また、外の新鮮な空気を吸うように創られている――そのように、神の国に向けて創られているからです。そして神は、私たちの側にある妨げよりも力があるからです。私たちを助け、生かそうとしておられるからです。

なにもお金だけではありません。「主義」、「立場」。「原則」や「基準」。そうしたものが私たちに及ぼす力があります。そして出口のない思考――狭いところに向かい、救いのないところに向かう思考があります。なんであれ、押さえつける力のもとにあって、私たちの心の奥に、神の国への憧れが存在します。自由にされたい。出かけたい。ひろいところに置かれたい。窓を超える。それは束縛の中にあるとき、いっそう慕わしく思われるでしょう。クリスチャンであるかないかの区別はありません。また私たちが気づいていなくても、この憧れが、私たちの心の奥に植え付けられているでしょう。私たちが見ていなくても、神は、私たちの心の憧れを見ておられます。

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