おばあちゃんから教えられたこと

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聖書の言葉

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章6節

國安光によるメッセージ

わたしはおばあちゃん子です。同居しているおばあちゃんがいる家で、幼少期から20代前まで暮らしていました。そのおばあちゃんが昨年、天に召されました。私は孫であり、牧師でありますけれども、おばあちゃんの看取りと葬儀の司式をしました。

本当だったら東京の所属している教会の牧師にしていただく予定だったのですが、ちょうどコロナウィルスの感染拡大期ということもあり、それが難しくなってしまいました。そこで私が急遽担当することになりました。

思いがけないことではありましたが、でもよく考えたらおばあちゃんに、こんなことを言ったことを思い起こします。おばあちゃんと天国で会いたいから、洗礼を考えてみて欲しい。クリスチャンになったら、葬儀は私がしても良い、と。

それからおばあちゃんは洗礼について考えてくれました。しばらくして、神様の導きによって受洗しました。義理でとか、私が葬儀を担当してくれることを期待して、受洗したわけではありません。でもあの時に私が伝えた言葉が背中を押すきっかけになったのだと思います。

受洗をしてからは、葬儀のことは何一つ、話をしませんでした。もちろん打ち合わせもしていません。すべて神様にお任せしていたんですけれども。図らずして、私が葬儀を担当することになりました。

やがておばあちゃんが危篤であると知らされたとき、二つの思いがありました。孫の自分としての気持ちは悲しみがありました。でも牧師としては、一人のご高齢の女性が今死を迎えようとしている。今こそ主イエスの慰めを届けなくては、ある使命感のようなものです。

二つの思いが交錯しながら、結局よくわからないまま、おばあちゃんと面会することになりました。5分だけの面会でした。病室に入ると、いつものおばあちゃんがそこにはいました。でも体は痩せ、目をつぶって少し辛そうな表情でした。

「おばあちゃん」声をかけると、目を開き、口を開けて「おおー」と驚いていました。もう声は出せない状態でした。「光だよ。関西から車で来たよ。」と言うと、「あらま、よく来たね」風が隙間を通るような声で伝えてくれました。

それからおばあちゃんは痩せほそった手で私の顔を触りながら、大きくなったな〜としみじみ感じながら見ているようでした。私がマスクをずらし、笑って「元気だよ」と言うと、私のマスクをピッと引っ張って、私の顔にパチンと戻してくれました。そういう仕方で「よかった」と応答してくれました。

私は牧師として、何か聖書のみ言葉をと思い、用意していました。でもその時のおばあちゃんにとって、一番嬉しかったのは、私の顔を見ること、触ることだったのかもしれません。結局、み言葉を伝える間もなく、面会の時間が終わりとなりました。

別れ際、最後に「祈って良い?」と尋ねる、おばあちゃんは「うん」と頷いてくれました。おばあちゃんの平安のために、祈ることができました。牧師というよりは、おばあちゃんの孫としてお祈りをすることができました。

その面会の一週間後に、おばあちゃんは息を引き取りました。それから私は葬儀の準備をはじめました。葬儀は家族葬でした。参列者は、皆私の家族でした。私はこれまで葬儀の司式を担当しましたが、自分の家族のためにするのは、もちろん初めてでありました。

孫としては、悲しみがありました。別れの時を静かに過ごしたい思いもありましたけれども、おばあちゃんへの恩返しのつもりで、私に与えられたつとめを果たそう、そういう思いでのぞみました。

司式に立ったら、いつものように牧師モードに気持ちを切り替えまして、葬儀を進行しました。説教の時となり、語りはじめると、不思議と気持ちが平安で包まれていきました。自分が語る説教が、慰めとして届いてきたんです。

葬儀が無事に終わり、火葬場にいきましたときに、ふと気付かされました。私は牧師として、おばあちゃんに平安を届けなくちゃ、家族を慰めなきゃ、と思っていたけど、私自身がおばあちゃんから平安を与えられ、葬儀を通して慰めを与えられている。

主イエスのみ言葉を思い起こします。「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしは」は、ギリシア語をあたってみますと、強調をあらわす言葉があります。ニュアンスとしては、「わたしは」よりも「わたしが」です。

「わたしが道です。わたしが真理です。私が命です。」これが主イエスがおっしゃったことだと思います。「わたしが」ですので、キリストこそ人生を導く真の道であり、キリスト以外にはあり得ない、とおっしゃるんです。

これまで私は牧師として、何度もこのみ言葉を聞いてきましたけれども、おばあちゃんの葬儀の司式をすることを通して、主イエスのお言葉がどれほど慰め深いものであるか、また真実であるかを、改めて教えられたように思うのです。

主イエスが、おばあちゃんの道となり、真理となり、命となって下さった。キリスト教の葬儀には希望があります。死では終わらない命がある。死のかなたに希望がありますので、私たちは涙の谷を歩く時も、主イエスの慰めに生かされます。

おばあちゃんが私に教えて下さった最後のこと、それは「主イエスが道です。主イエスが真理です。主イエスが命です。」ここにこそ真の慰めがあり、平安があります。

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