助け合う喜び

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聖書の言葉

助けあう兄弟は堅固な城のようだ、しかし争いは、やぐらの貫の木のようだ。(口語訳)

旧約聖書 箴言 18章19節

吉田実によるメッセージ

先週もお話させていただきましたように、私は2020年の4月から但馬みくに教会に遣わされまして、養父市大屋町に住んでいます。先週は、こちらに住む方々がいろんなものを自然に分かち合ってくださることが新鮮でとても嬉しいというお話をいたしましたけれども、田舎暮らしを始めますと、自然の豊かさと申しますか、お野菜を分けていただけることだけではなくて、自然そのものが持つ人を癒す力を日々感じることが出来ます。と同時に、自然の厳しさも実感しています。今は正に初めての冬の厳しさを実感していますけれども、昨年の春にこちらに参りましてまず驚きましたことは、野生動物との共存の仕方にも厳しい現実があるということです。こちらの教会の方とお話をする中で、いつの間にか「熊に出会った時」の話になりまして「先生、熊に出おうたら逃げたらあきませんぜ。追いかけて来ますから」というようなことを教えていただきまして、そういう話題が日常会話にのぼるということに大変驚きました。里山と田畑の境には鹿やイノシシの侵入を防ぐ金網が張り巡らされていまして、年に一度地域の皆さんで協力して金網を修理する作業の日もあります。昔は動物が人里まで降りてくるようなことはめったになかったそうですが、人が減って里山の管理がきちんと出来なくなるにしたがって、動物が村に下りてくるようになったそうです。また、里山の管理がきちんと出来ていた時にはマツタケがたくさんとれたそうですけれども、手入れが行き届かなくなってからは収穫量が随分落ちたそうです。自然は自然のままにするのが良いのかと思っていましたけれども、適切に人間の管理の手を入れることによって、より豊かにその良さを発揮するという側面もあることを教えられました。そしてそういう自然の豊かさと厳しさの両面を経験する中で、互いに助け合うという文化が今でも息づいていることを強く感じます。先週も申しました通り、これは人間が人間らしく生きてゆく上でとても大切なことではないでしょうか。

話は変わりますが、我が家の息子は重度の知的障害者ですので、いろんな方のお世話になっています。そうしなければ生きて行けないからです。障害者ケアにおけるリカバリー、すなわち回復と言う考え方があります。かつては出来る限り健常者と呼ばれる人々と同じ状態に近づくことが回復の目標とされてきました。けれども、病気なら治る可能性がありますが、障害は治るものではありません。従って健常者のようになることを目標にすることには無理があります。そこで近年では、障害はその人の個性として受け入れて、いざという時に助けてくれる人々のネットワークを出来るかぎり広げて行くことが真の回復の道筋であると考えられるようになりました。そのように、自分ではない何者かになることを目指すのではなくて、ありのままの自分自身をまず受け入れて、そして助けてくださる方々と一緒に紡ぎあげて行く物語が、親がいなくなった後も豊かに続いて行くように努力する。それが障害者の目指すリカバリー、回復の道なのだと思います。そういう豊かな助け合いの物語が、田舎にはきっと昔からあったのだろうなと思わされています。そしてそのような分かち合い助け合う人と人とのネットワークの網の目が密になることが、いわゆるセーフティーネットの働きをしてきたのではないかと、あらためて思わされています。

人は一人で何もかもできるわけではありませんので、助け合うということはある意味で当然のことです。けれども、競い合って勝つことが優れた良いことであるかのように子どもの頃からいろんな場面で刷り込まれてゆく中で、「助けて」ということが恥ずかしいことのように感じてしまう方が少なくないのかもしれません。けれども、困った時に「助けて」と言うことは恥ずかしいどころかとても大切な、人と人とのつながりを築くための「パスワード」なのではないでしょうか。初めに読みました箴言の御言葉にも「助けあう兄弟は堅固な城のようだ」と書かれています。色んな形の岩が組み合わされて強靭な城壁となるように、助けられる人と助ける人のネットワークは、大震災やコロナ禍のような大災害の中にあっても、生きる力となります。そういう意味でもぜひ勇気を出して、ご近所のキリスト教会を訪ねてみてください。そこに集っている人たちはみんなどこかに弱さがあり不完全です。悩みもあります。でも、互いに蹴落としあうのではなくて、どうすればもっと豊かに助け合えるかということで悩んでいる人たちとそこで出会えるに違いありません。そこにありのままのあなたの、本当の居場所がきっと見つかります。

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