主キリストこそ、すべての人の王

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聖書の言葉

主こそ王。威厳を衣とし 力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。

旧約聖書 詩編 93編1節

宮武輝彦によるメッセージ

毎年3月の第一金曜日に、おもにキリスト教会の婦人の方々の集まりとして、世界祈祷日が守られています。この世界祈祷日は、1887年にアメリカの女性たちが、さまざまなかたちで抑圧されている人たちを覚えて祈り始めたのがきっかけで、二度の世界大戦の経験から和解と平和を求める世界的な運動に発展したものです。今年の3月には、アフリカのジンバブエ共和国で差別されている女性たちを覚え、世界の各地の教会で祈りがささげられましたジンバブエは、アフリカ南部にある世界最貧国の一つです。今、新型コロナウイルス感染症のために、飢餓がさらに深刻になっているそうです。全国民1650万人のうち、400万人以上の人々が、緊急の支援を必要とするほどです。また、昨年12月には食糧の価格が一気に七倍になる食糧インフレがあり、多くの人々が、その日の食べ物を購入することも困難な状態です。

世界祈祷日で、ジンバブエの婦人たちから届けられたメッセージは、イエス・キリストの命令、「起き上がりなさい!床をかついで歩きなさい」です。その箇所にはこのように書かれています。

「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。」(ヨハネによる福音書5章1節~9節)

このように、ベテスダの池のほとりで、38年の間、病気で苦しんで、横たわっていた人を見て、イエス・キリストは、「良くなりたいか」とたずねられます。病気で苦しんでいるのなら、そう思うのは当然ではないかと思われるかもしれません。しかし、この人は、長い間に、よくなりたいという意欲すら薄れ、絶望していたのでしょう。もはや、水が動いたときに、真っ先に水に入っていやされたのを見ても、自分から入ろうとする気持ちすら失ってしまっているのです。しかし、そのような絶望と無力感にうちひしがれている人に、イエス・キリストは、「良くなりたいか」とたずねられたばかりでなく、「起き上がりなさい」「床を担いで歩きなさい」と命じられるのです。この「床」とは、長い間よこたわっていた寝床の敷物です。それを担いて、この人は、新しい人生を歩み始めたのです。じつに、イエス・キリストの声は、神の声であり、そこで起こったことは、神の奇跡でした。この奇跡によって、「その人はすぐに良くなって、床を担いて歩き出した」のです。

冒頭の言葉、「主こそ王」とは、天と地を造られた神こそ、すべての主権をお持ちである方と、神を賛美しています。ベテスダの家のほとりで、38年の間、病気で苦しんでいた人にとって、イエス・キリストこそ、病気をいやす主権をおもちであることを知ることになりました。

詩編93編は、イエス・キリストがガリラヤにおられた当時、金曜日に会堂で歌われました。それは、旧約聖書の創世記の冒頭に書かれているように、はじめに神が天と地を造られたとき、六日目にその創造の業が完成の日を迎えたことを記念したのです。

「世界が固く据えられ、決して揺らぐことなない」との力強い賛美こそが、天と地を造られた神にふさわしいのです。わたしたちは、個人的にも、社会的にも、様々な経験と境遇の中、心をゆさぶられます。しかし、どれほど、時代が変わり、動こうとも、そのすべての世界の上に、威厳をまとって君臨されているお方こそ、「主」です。

じつに、イエス・キリストは、ただの人ではなく、天と地をつくられた永遠の神、「主」であった、と聖書は教えています。それは、人間の理解を越えた、神の啓示です。しかし、この神の啓示をそのまま信じるとき、わたしたちは、イエス・キリストの声による病のいやしは、憐れみ深い神さまのみ業であったことに気づかされるのです。

十字架の上で叫ばれた、イエス・キリストの声は、「成し遂げられた」「終わった」でした。創造の業が完成された、六日目、金曜日に、イエス・キリストは、御心の中に、罪人をゆるし、ご自身の栄光のもとに迎えるために、罪を贖う業を完全に成し遂げられたのです。

「主こそ王」とは、今、「主キリストこそ、すべての王」です。そして、十字架の死から三日目に復活され、天の王座に着かれたキリストが、どんな時にも、世界の国々のすべての人びとを愛し、守っておられます。その中で、わたしたち人間の責任は、ただ、キリストの主権にふさわしい、隣人愛であり、まことの神への礼拝であると信じるものです。

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