苦難の日に、わたしを呼びなさい

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聖書の言葉

それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。

旧約聖書 詩編 50編15節

宇野元によるメッセージ

「わたしを呼んでください。」助けが必要な折に、そう言ってくれる人がいるなら、幸いですね。

困っているときに、そう声をかけてもらった、そういう体験は、幸いな体験です。そういうことは、いつでも与えられるわけではありませんから。

また、私たちは知っておりますね。「わたしを呼んでください。」「遠慮なく連絡してください。」そう語ることができる折があれば、幸いに思います。いつでもそう声をかけられるような確かな者ではない。それを自覚するからです。

苦難によって、私たちはともに限界を示されます。自らが限界のある存在であることを示されます。

そんな私たちに、聖書の言葉が与えられています。二つ、心に留めたいと思います。

まず、けさの言葉は、私たちに大切なことを教えてくれているでしょう。すなわち、私たちは一人ではありません。「呼びなさい」。そう招かれています。このことに心をとめたいと思います。私たちはそうするよう招かれています。願われています。求められ、期待されています。苦しいときに。そして「一人であること」を強く感じるときに。自分は一人、そう私たちに語る心の声とは別に。

聖書に聞くことは、私たちの心の声に耳を傾けることではありません。それは、私たちとは別の存在を思うことです。聖書の言葉に聞くことは、自分の人生を、神の言葉の鏡のなかで見つめることです。一人であると思うとき、私たちは、いわば、鏡に映る自分を眺めることでしょう。そして、鏡に映るみすぼらしい自分を眺めて、ため息をついてしまう。そのような具合になるでしょう。

私たちに告げられています。わたしを呼びなさいと。

小さな暗い心の部屋の窓をあけるよう、招かれています。冷たいみじめな心の地下室から出るように。苦しいときに。自分の心の傾きによらず、自分の感情によらず、自分の力によらず、自分と別の存在に耳をすますように。

第二に、こう語られています。「わたしを呼ぶがよい。」これにつづけて、「苦難の日、わたしはお前を救おう」と。

神は、私たちの思いをこえる思い、私たちのための自らの意志を遂行してくれる。そのことが約束されています。

このことは、言い換えることができるでしょう。もし、神が、私たちの心の鏡のような存在であるなら、どうだろう?もしも神が、私たちの横にいて励ましてくれるだけの存在であるなら。私たちの取り組みを補足し、強化してくれる存在にすぎないなら。それなら、「お前を救おう」と語られることはないでしょう。救いが約束されることはないでしょう。苦難の日に、しっかりした拠り所は与えられないでしょう。

新しいウィルスの前に、世界が苦難の中にあります。百年前、人々は、互いの距離を保つ工夫をしました。百年たっても、同じことをしておりますね。現代の人間も、それより良い方策をもちあわせていないことが示されています。今、私たちは、好むと好まざるに関わらず、現実に向きあい、自分と世界を見つめなおすよう導かれているでしょう。

どんな支えがあたえられているか?なにが助けになるのか?

不安の中にあって、けれども勇気をもって、今の時を歩むよう導かれています。神の、私たちへの意志がなされているからです。救いが与えられているからです。私たちの思いを超えることがなされています。

私たちは信頼することができます。苦難の日も、よき力に囲まれ、守られていると。そして荒れ野に見える現実の中にも、命にあふれる世界が潜んでいると。苦難の中でも、愛の中にあると。そして絶えず、新しく生きるよう招かれていると。なぜなら、神の独り子が与えられているからです。イエスの苦難と、勝利が与えられているからです。

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